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僕らのことばがウィスキーであったら【さとゆみの今日もコレカラ/第 197 回】

村上春樹さんの著作に『もし僕らのことばがウィスキーであったら』という本がある。そこに書かれた一節について、かれこれ 20 年以上考えている。考えすぎて、このエッセイが生まれたアイラ島まで行ってしまったくらいだ。

もし僕らのことばがウィスキーであったなら、もちろん、これほど苦労することもなかったはずだ。僕は黙ってグラスを差し出し、あなたはそれを受け取って静かに喉に送り込む、それだけですんだはずだ。とてもシンプルで、とても親密で、とても正確だ。しかし残念ながら、僕らはことばがことばであり、ことばでしかない世界に住んでいる。僕らはすべてのものごとを、何かべつの素面(しらふ)のものに置き換えて語り、その限定性の中で生きていくしかない。

『もし僕らのことばがウィスキーであったら』(村上春樹)より

「残念ながら、僕らはことばがことばであり、ことばでしかない世界に住んでいる」

これから書くことを生業(なりわい)として生きていこうとしていた 20 代の頃の私にとって、この文章は、忘れられないものとなる。

そうか。言葉って、ウィスキーを飲み交わすよりもぜんぜん通じないものなんだな。そんな限定的な表現方法を、何の因果でか私は選んで生きていこうとするんだな。道はたぶん、かなり、険しいんだろう。そんなことを釘さしてくれた本だったのかもしれない。

書くことを仕事にすることの、答えのなさ。途方のなさ。終わりのなさ。でもそれをやると決める覚悟、みたいなものを、まだヒヨコの私はこの本を読みながら感じとっていたのかもしれない。

✳︎

昨夜、シャープさんとハイボールを飲みながら、「書いて(描いて)伝えようとすること」「読んで著者や登場人物や自分と対話すること」……について話をした。場所は梅田のラテラルさん。

本当は、同じハイボールのグラスを持って、

「飲んでみて」

「ああ、この味ね」

「うん、そんな感じ」

「わかったわかった」

とできればどれほどか楽であろう。聴きに来てくれたみなさんにも、そう、これなんだけどとグラスを回し飲みできたらどれほどか楽だろう。

でも、それができないから、私たちはせっせと時間をかけて文章を書き、さらに言葉をつかって脳内にある「この感じ」を言葉にしようと試みる。驚くほど、まどろっこしい。その交信相手にも読む&聴く、そして考えるの負荷をかける。

昨夜はその負荷をたくさんの人が一緒に背負ってくれて、なにかを紐解こうとしていた気がした。

会場に来てくださった方が

「私たち、みんな、共犯者みたいだった」と言ってくださったのが印象的だった。

村上春樹さんのくだんの文章には続きがある。

でも例外的に、ほんのわずかな幸福な瞬間に、僕らのことばはほんとうにウィスキーになることがある。

昨夜、ある瞬間においてでも、言葉がほんとうにウィスキーみたいになった時間があったのだとしたら、すごく嬉しいなあと思いました。あなたには、どんな味だっただろう。

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