
黒子にはなれない【さとゆみの今日もコレカラ/第 209 回】
朝の 10 時から 14 時間、ぶっ通しで 21 人分の原稿を読んでいた。
ある方に1時間私が公開インタビューし、その内容をゼミ生に書いてもらう課題だったのだが、21 人いれば 21 通り。「私たち、本当に同じ話を聞いたのかな」と思うくらい、その内容がバラバラで面白い。
原稿に登場するのは、インタビューをしている私の言葉と、それに答える取材相手の言葉だけだ。書き手の感想を挟む余地はない。それでも、その原稿からくっきりと見えてくるのは、書き手の思想である。
1時間のインタビューの中で、どの話を面白いと思ったか。その話をどう解釈したか。その話をどう書けば読者に伝わると考えたか。
その文章には、その人がどこで生まれ、どう育ち、何を読み、何を見て、どんな友達とどんな会話をし、誰に憧れ、どんな働き方をし、何を大切にして生きてきたのか……が、にじむ。
ライターは黒子であると思ったら大間違いで、取材相手を真剣に見つめれば見つめるほど、そこであらわになるのは、それを映し出している私たちの瞳のほうである。
今回、インタビューを受けてくれた方が、
「文章を書くときは類語辞典を使いながら、より的確な言葉を探す」
と答えた場面があった。この「的確」を、「適切」と書き換えてきた人がいた。前後の文脈から、この方が言いたかったのは「的確(=正確で的を射ている)」ではなく「適切(=その場にふさわしい)」だったのでは? と考えたのだろうか。たった2文字の言葉選びにも、書き手のこれまでの人生がにじむ。
正解はない。文章は人そのものだ。
文章の書き方は教えたり教わったりすることができるけれど、面白い文章の書き方は教えたり教わったりすることはできない。
それは、どういう人生が面白い人生かを教えられないのと同じなのだと思う。
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昨日、ある中学校の運動会で見た光景をこのコレカラに書いた。たくさんの方から感想をもらったのだけれど、その中に、こんなものがあった。
この場に居合わせた全員が目の当たりにした光景に、このストーリを書くことができるのは筆者だけだ。一部始終の出来事を、どれだけ正確にカメラに収めても、このストーリは見えてこない。
https://x.com/cimomonn_s/status/1794744679969534408
何かを書くとき、自分をかやの外に置いておくことはできない。
どの瞬間に、どの角度からスポットライトをあて、どこにフォーカスするのか。そこに恥ずかしいほど、自分がさらけ出される。むしろ脱いでいるのはこちらのほうだ。合法ストリップショー。
文章は、書き手の理解を超えない。
限界点はいつも、自分のほうにある。
突破口もつねに、自分のほうにある。
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ひらがな、たった一文字で世界が変わる。それが日本語の面白いところだ。


