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公開ラブレターと書くの業【さとゆみの今日もコレカラ/第 321 回】

今日のコレカラは18禁です。

最近、ある恋人同士の、そしてその後は夫婦となって40年を連れ添った二人の往復書簡を読んでいる。

いや、往復書簡ではないか。二人の歌人の間で交わされた歌のやりとりと日記とそれを振り返る回想録。

最初のうちは、短歌に疎い私でも知っているような名歌が、ふむふむこのシチュエーションで生み出されたのかなどと楽しく読んでいたのだが、だんだん胸がざわざわしてきて、いまちょっと毒にあてられたような気持ちでいる。

この作家(夫婦)の書籍をすすめてくれた先輩に、「私、ちょっとダメでした。濃厚すぎて」と伝えると、「共感性羞恥かな」とその人は言う。

「共感性羞恥なのかどうかはわからないけれど、デート中のことをあそこまで赤裸々に詠むのって、デートしている間もあらゆることを注意深く観察しているわけでしょ。そして、相手だってこのデートのことを詠むのだから、どんなふうに表現するのかなと思いながら過ごしているわけだよね。私だったら、デートに没頭できなくなる気がする」

そうなのだ。

片想いの日、初めて体が触れた日、迷いの日、口づけした日、重なる日。それらがあまりに選び抜かれた言葉でそこに提示されるものだから。もしも自分が書き手として当事者だったら、書かれた相手として当事者だったらと考えてしまう。

書き手としては、発表することが決まっている恋の歌の締切を抱えながら逢瀬をするようなものだ。あらゆる瞬間を脳内で五七五の言葉に置き換えてしまいそうな気がする。しかもその歌を受け取るのは希代の歌人であり、自分の歌を講評する人でもある。さらにそれは、文壇に発表する作品にもなるわけで、いわば公開ラブレターなのだ。

私はこれまで、語彙をたくさん持っているほうが、いろんな感覚を豊かに味わえるのではないかと考えていた。ワインを表現する言葉をたくさん知っているほうがワインを深く味わえるように。

だけど、もしも言語化することを前提にある行為を行うのだとしたら、そもそも行為自体に体を没入できなくなるのではないか? 言葉で感覚を限定してしまわないか。もしくはより強い言葉を生むために、自分の行動を変更したりしないのか。無意識のうちに、こっちのほうが映えそうだなどと、立ち位置を変えたりしないのだろうか。

先輩は、この2人の変わらぬピュアな思いに感動すると言ったけれど、私はそこに書くことへの業のようなものを感じて、だから毒にあてられたような気持ちになっていた。

「いやでも、さとゆみだって日常のいろんなことをネタに、エッセイ書いてるわけじゃん」と、先輩は言う。「うん、でも、セックスの最中に文章のことは考えない」と言うと、盛大に吹かれた。

和泉式部も、与謝野晶子も、そこらへんどうやって折り合いをつけてきたのだろう。

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ここにも、「書く」運命に導かれた女性がいた。

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