
「言葉にしない」ことで。「言葉にしない」ために。【さとゆみの今日もコレカラ/第516回】
何を書くかよりも、何を書かないかが大事。
何を言うかよりも、何を言わないかが大事。
よく聞く言葉だ。
前者に関してはもうかれこれ何年も意識してきて、こんなに毎日書き散らかしているけれど、書いていないことのほうがもちろん圧倒的に多い。後者はまだ難しい。あと50年くらいかかるのではないかと思う。
言語化について、編集者の今野良介さんがこんなポストをしていた。
肉親やパートナーや同僚など、近しい人に悪態をつきたくなったらどうするか。私はまず、一切手加減しないモラハラ確定訴訟レベルの銃弾の罵詈雑言を頭で組み立てる。出せば確実に破滅なので思い浮かべるだけ。口を塞いだまま、口内と肺の間で呼吸するように。 浮かべ尽くしてから、「実際に口にしたらどうなるか」を考える。相手の反応や心の動きを想像する。確実に破滅する未来しか見えない。消えない怨恨が残る。そして言葉の銃弾は相手だけでなく自分の心も軽く撃ち抜く。それは自分が望んでいることではないとわかる。 ここまでくると「じゃあどうするか」「じゃあどう言うか」を、少し落ち着いて考えられるようになる。 いわゆる「言語化」を「他人に伝えるための手段」だと思わないほうがいい。むしろわたしにとっては「伝えない」ための手段である。
言語化は「伝えない」ための手段。
私も最近、書くときは、同じように考えているなあ。話す時もそうすればいいのか。
そもそも、言語化した方が良いか、言語化うんぬんの前にやることあるじゃないかという指摘をしているのが、編集者のりり子さん。
最近、眉間に皺が寄る言葉=言語化。この言葉自体に良いも悪いもないけど、そこらで聞くようになってから違和感が募るようになった。以前は普通に使っていたけど、最近は使わない。言語化以前に、その事象をちゃんと語るに値するほどまともに感じてもいないし考えてもいないと思えることが多いから。
りり子さんは、この文章で、言語化の情報量がどれだけ乏しいか、感覚で感知する以外に捉えられない情報があることについて、考察している。
さらには、言語化すると忘れ去られる記憶もある。先日、エッセイを上梓した堀さんと話したのも、それだった。
私は「書くと、書いたようにしか思い出せなくなる」と言い、堀さんは「書くと、記憶をそっと深く埋めて砂をかけたくらい遠くなる」と言った。
言葉にしなければ全部残る。
言葉にしないために何ができるか。
それでも言葉にするときは、何を捨てるか。
「今日もコレカラ」は、毎朝7時に更新して、24時間で消える文章です。今日もコレカラ、良い一日を。
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