
涙五粒以内【さとゆみの今日もコレカラ/第 217 回】
昨夜、六本木にて世にも上品な焼き鳥をいただきながら、「鶏はすごいな あ。まるっと一羽、あらゆる部位が美味しくいただける」などと考えていた。モモ、ハツ、ささみ、せせり、皮、ぼんじり、ナンコツ、レバー、ちょうちん……次に次にと口に入れながら、私は自分の身体をまるっと使えているかなあなどと想像する。
筋トレに通うようになってから、こんなところにも筋肉があるのかと驚く部位が筋肉痛になる。過去に一度も意識したことのない場所に筋肉があって、そこを鍛えるとちゃんと痛む。痛むということは多少は使えているのだろう。自分の身体の中に自分が認識していなかった肉があることにひっそり感動する。
筋肉痛によって初めてそこに筋肉があると感じるように、言葉を知って初めて認識できる感情がある。
高校生の時、「せつない」について書かれた山田詠美さんの文章を読ん だ。「せつない」は、英語には訳しにくい言葉で、涙五粒以内の感情であ る。それ以上の涙がこぼれたら、それは「せつない」ではなく「悲しい」なのだと書かれていたのを覚えている。そして、せつないという気持ちは、心が成長しないと味わえない感情だとも。
このとき以降、自分の感情が揺れたら、私は涙の数を数えてしまうようになった。これが(山田詠美さんの定義による)せつない、の気持ちかなと感じるときも何度かあった。
そして後日、私は私の観察によって、せつないという言葉を自分仕様に定義し直した。私の場合、悲しい時は胸が痛む。せつない時は喉と首筋が痛む。そう定義してからは、私は「せつない」という感情をそのように味わっている。
言葉があるから、その感情を味わえるのか。
「悲しい」では言い尽くせない感情があるから「せつない」という言葉が生まれるのか。
鶏が先か卵が先か。
などと考えながら、お酒も進みましたことよ。幸せな夜だった。
(幸せな夜、と、楽しい夜、もやっぱり違う)
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