
音読をとは、態度を決めること【今日もコレカラ/第975回】
月末から、りり子さんとの「書く人のための読書会」がスタートする。
初回の課題図書は長田弘さんの『読書からはじまる』で、私も再読を始めた。
「この本が好きだからこの読書会に申し込みました」という方も何人かいて、みんなと読めることを、私自身も楽しみにしている。
『読書からはじまる』で使われている日本語は、それ自体は平易な日本語ばかりだ。おそらく、小学か中学までに習う日本語で構成されている。
でも、斜め読みで読み進められないタイプの本である。何度か読まないと意味をつかめない文章も多い。
20年前に読んだ時には気持ちよく読めたはずなのに、読む力が落ちたかなあとも思う。
ふと、
本当に、ふと、思い立って、音読をしてみることにした。
なんとなく、声に出して読みたい日本語だよなと思ったからだ。
そのときは、乗車率30%くらいの山手線に乗っていたのだけれど、周りの人には聞こえないくらいの小さな声で音読してみる。
すると、驚いたことに急に文章が身体に入ってくるようになった。
目で追っていただけではわからなかった文意が、すんなり理解できるようになっている。
どうしてだ?
電車を降りたあと、考えてみた。
そして、思い立つ。
そうか。音読とは、態度を決めることなのだ。
音読には、リズムやら、アクセントやら、抑揚やら、息継ぎやらが発生する。
どこをゆっくり、どこをスピーディに読むのか
どんな声色で読むのか
優しい声で読むのか、事務的に読むのか
山場はどこなのか
音読とは、その文章をどう受け取るかの態度を決める行為なのだと知る。
その連続で文章を読むから、いやでも文章を味わいやすくなる。
これは、ちょっとした発見だった。
そして、同時に、ここ数年考え続けていることにひとつ、暫定解が出た。
その問いは
オーディブルに(耳読)で書籍を読む(聞く)ことによって、失われる読書体験とは何か
である。
そうか、オーディブルとは、その本を「自分がどう感じたいのか」という判断を、ナレーター(声優)さんに預けてしまう行為なのだ。
・本当はもっと小さな声で囁くように読みたかった
・本当はもっと懐疑的な気持ちで読みたかった
・本当はもっと高らかに宣言するように読みたかった
・本当はもっと気持ちを爆発させて読みたかった……etc.
そんな文章を、ナレーターさんの解釈にゆだねる行為なのだなと、理解した。
ちょっと嬉しい発見だった。
読書会、楽しみ。添削なしのコースはまだ申し込みできますよん。
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