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『資本主義と、生きていく。 歴史と思想で解き明かす「構造的しんどさ」の正体』を読んだら、遠回りをしたくなった

3年前、第一子の育休から職場復帰したときのこと。仕事と家庭の両立に不安を抱いていた私は、働く先輩ママたちに「三種の神器」を聞いて回った。いちばん多かった回答は「Apple Watch」だった。
「振動アラームが便利だよ。子どもの寝かしつけで寝落ちしちゃっても生還できるし、お迎えのために会社を出る時間もすぐわかるから」
時計という回答は意外で、「そこまで時間管理が必要なのか!」と当時は驚いたが、たしかに小さな子どもとの生活は何をするにも時間がかかった。

復職後、私は家事を効率化し、育児と仕事の時間を確保する作戦に出た。ロボット掃除機や自動調理器、宅配スーパー、冷凍弁当と、便利そうなものを片っ端から試した。Apple Watchはもう2代目だ。
今年に入って第二子を出産し、再び育休に入った。毎日8時間ほどを占めていた「仕事」が今はない。子どもが増えたとはいえ、単純に考えれば使える時間は増えたはずだった。なのに相変わらず、私は毎日「時間がない」と焦っている。なぜなのだろう。

そんなある日、職場の同僚と連絡をとる機会があった。復帰に向けたリハビリ気分で、久しぶりにビジネス書を開いてみることにした。選んだのは、品川皓亮さんの『資本主義と、生きていく。 歴史と思想で解き明かす「構造的しんどさ」の正体』(大和書房)。愛聴しているポッドキャスト「COTEN RADIO」の歴史調査メンバーが書いた本なら楽しく読めそうだと、軽い気持ちで手に取った。
けれどその本は、思いがけず、私がなぜ焦ってしまうのかを紐解いてくれた。

本書は、私たちが感じる「何かに追われているような息苦しさ」の正体を、歴史と思想の視点から解き明かしていく一冊だ。
第1部では、私たちを追い立てる存在として「時間・成長・数字・労働・お金・消費」という「6人の追手」が紹介される。これらは、個人の性格や能力からではなく、資本主義という社会の構造から必然的に生み出されているものなのだという。私は迷わず「時間」の章から読み進めることにした。

ページをめくりながら、「時間に追われる」とは、私にとってどういうことなのだろうと考えた。
たとえば夕方、保育園に迎えに行った帰り道。3歳の長女はなかなか前へ進まない。路肩に何分も座り込んでダンゴムシを観察する。ようやく歩きだしたかと思えば、どこまで歩けば園の屋根が見えなくなるのかを確かめるように、何度も立ち止まっては振り返る。私ひとりなら8分の道のりが、20分、30分と伸びていく。そんなとき私は時計を見て、「この時間があれば、シーツを交換して、資格勉強の本も読めるのになぁ」と、できたはずのことを頭の中に並べて焦っていた。帰宅から寝かしつけまでの時間割を必死に組み直し、削れる時間を探した。「今日は遅くなったから、絵本は1冊ね」と娘に我慢させてしまう日もあった。
思い返せば、私が焦るのはいつも、何もできていないと感じる時間が生まれたときだ。過ぎた時間を惜しみ、失った時間を取り戻そうといつも先を急いでいた。

第2部では、資本主義を6つの構成要素に分解し、それぞれの構成要素と「6人の追手」との関係が解説される。「時間」という追手は、資本主義の構成要素のなかでも特に「分業」と強い結びつきを持っているという。

資本主義の発展には分業が不可欠だったのですが、その分業に不可欠だったのが、資本主義にふさわしい時間感覚を持つ労働者を作ることだったのです。(中略)分業が生み出した「効率化への欲望」は、工場を飛び出して私たちの私生活までをも覆い尽くすことになっていくのです。

この言葉を読んだとき、私のことだと思った。12年間の会社員生活の間、「もっと成果を出そう」「前期よりも成長しよう」と効率化や生産性の向上を追い求めてきた。その思考は私の骨の髄に染み込み、いつの間にかプライベートの時間にまで「タイパ意識」を持ち込んでいたのだ。
子どものために決めたはずの消灯時間は、いつしか絶対にクリアすべきミッションと化していた。予定より早く寝かせられた夜、タスクをこなしたような達成感さえ覚えていた。

そう気づいて、ふと分からなくなった。私は、なにを目指していたんだっけ?
本当は、何分だって一緒に立ち止まって、何冊だって絵本を読んであげたい。子どものやりたいことにゆっくり付き合いたくて、私は育休をとったのだ。けれど私は、まだ時計も読めない子どもまでも、私と「時間」との追いかけっこに付き合わせていたのだ。
こんなこと、もうやめたい。

著者は最後の第3部で、資本主義とうまく付き合っていくには「距離感を調整すること」が大切だと語る。そして、資本主義から見れば「バグ」のような行動をあえてすることが、自分だけの人生を紡ぐことにつながるのではないかと示す。
そこまで読んで、自分を変えるヒントは身近にあるのかもしれないと思った。過ぎていく時間を惜しむのではなく、道端のダンゴムシをただ見つめるような、「何にもならない」時間を生きること。そんな「バグ」のような過ごし方を、毎日当たり前にしている存在が、すぐ近くにいるではないか。

今日の保育園からの帰り道、長女は家とは反対側にある「押しボタン式信号機」のボタンを押したいと言いだした。本書を読む前なら「また今度ね」と断っていただろう。けれど今日は「行ってみよう」と回り道をすることにした。赤いボタンを押すときはしゃぐのかと思っていたら、娘はきゅっと口を結んで、そっと指を伸ばした。ふたりで信号機を見上げる。なかなか青には変わらず、手持ち無沙汰になった私は娘に目を落とした。けれど彼女は、じっと信号機を見つめ続けていた。
「あっちの黄色がチカチカしたよ」
「青になった!」
娘は私の手を握り、もう片方の手を高く上げて、横断歩道を渡っていく。反対側の歩道に着くと、ようやく口元を緩ませ、「渡れたね」とやわらかい声でつぶやいた。こうしてゆっくり見ていると、娘にはまだ私の知らない表情がたくさんあるような気がした。帰宅は遅くなってしまったけれど、私はもう急いでいなかった。
復職したら、私はまたきっといろんなものに追われるだろう。そのときには、また娘を誘って、回り道をして帰ろう。

文/福岡 玲子

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