
小澤征爾さんと赤い帽子【さとゆみの今日もコレカラ/第 102 回】
小澤征爾さんが指揮する音楽を聞いたことがある。場所はお茶の水のカザルス・ホール。前職テレビマンユニオンの会長、萩元晴彦さんのお別れ会のときだ。音楽葬だった。
会長は、『オーケストラがやって来た』というテレビ番組を作ったり、長野オリンピックの開閉会式の演出を手がけたりしながら、当時日本では活躍の場が与えられにくかった小澤征爾さんをはじめ、多くの音楽家が世に出る場をつくった。この日お別れ会を行ったカザルス・ホールも、彼がプロデュースした室内楽のためのホールだった。
その日、ホールの二階席、いつも会長が座って楽曲を聴いていた席には、トレードマークだった赤い帽子が置かれていた。
小澤さんが指揮する新日本フィルのメンバーの演奏をはじめ、いまや世界各国で活躍している演奏家たちが次々とかけつけ、萩元さんのために曲を捧げる。次々と壇上に立つ演奏者たちはみな、その彼の席の赤い帽子にむかって演奏していた。
小澤征爾さんもやはり、その帽子に向かって、「萩さん」と呼びかけ、お別れの言葉を伝えた。
「ボクが NHK とケンカして、日本の音楽界から追放されそうになっていたとき、萩さんは、日本武道館でベートーベンの第九を振る企画を持ってきてくれた」
萩さんがいなければ、僕はいなかったと、小澤さんは言葉をつまらせながら語った。
ブラームスにコッセルやヨーゼフがいたように 歴史に名前を残す音楽家には才能だけじゃなく 人との大事な出会いがあるものさ ボクもそういう人間のひとりになりたいんだよ
「のだめカンタービレ#9」より
すぐれたクリエイターが活躍し続ける裏側には、その活動を長く応援しているスポンサーがいると感じる。
スポンサーとは、必ずしもお金やチャンスを与える人だけを指すのではないと思う。たとえば、長い年月、その人の活動を最前列で見続けるということも、時にはその活動を書き残すことも、ひとつの応援活動だと、思う。
当時 20 代。テレビマンユニオンを辞め、ライターとして駆け出したばかりだった私は、いつか、そういう人になりたいと思った。
小澤さんの訃報に接し、会長のことを思い出した。いまごろ天国で、小澤さんと再会しているだろうか。演奏会が行われているだろうか。あちらの世界で奏でられる音もきっと、美しい音色なんだろうな。
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アリスさんから受け取ったバトンを胸に、「おいしい革命」の革命家の一員として。

