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なぜ、さとゆみの文章はつまらなくなったのか?【さとゆみの今日もコレカラ/第 251 回】

エッセイを書くときには、爪を切りなさいと教えてもらった。もしくは髪を切りなさい。覚悟を持って世に問いたいテーマであればまだしも、そうでないなら切って血が出る場所を切る必要はない。書くことよりも大事なのは、病まないことと死なないことである。そう習った。

だから普段私は、現在進行形で悩んでいること、困っていることは公の場では書かない。赤裸々に自己開示しているようだけど、自分としては決着したことだけを書いている。

が、今日書くことは NOW で悩んでいることである。一度この病巣をかっさば いて膿を出そうと思った。なので、今日のコレカラはだいぶ汚いかもしれない。返り血がどばっとそちらに飛んだらごめんなさい。

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さて、最近自分がここで書くものがつまらなくなっていると認知している。具体的に言うと、この3週間くらい、わかりきったことしか書けていなかったり説教っぽかったり、あれ、私、どうしたかなと思っていた。

もちろん私は文章の大家ではない。自分の文章が優れているなどとは全然思っていない。でも、少なくとも自分の文章を自分は好きだった。

この連載が始まってからも、自分で自分の文章を読み返すことがよくあった。とくにこのコレカラは 24 時間で消えてしまうので、「今日は面白いことを書け たかもしれないなあ」と感じたら、消える前に何度も読み返す。多いときは、1日に 10 回くらい読んだりする。

もちろん、毎日そんなお気に入りの文章を書けるわけではない。でも、どこかしら自分が好きだなと思う箇所がひとつはある。書き出しの1行だったり、途中の展開だったり、ラストの言葉だったり。ふふっ、てなる場面があると嬉しくて自分が書いた文章を読み返しながら、ちょっとにこってなる。

それが最近、少ない。自分の文章を読んで、にこにこすることが減った。なぜだ。

思い当たるふしは7つくらいある。

まず、体調が悪かった。薬を変えてもらって今は劇的に改善したが、6月の後半は1日に数時間しか稼働できていなかった。動かないのだから書けることが減る。いきおい、身体を通っていない、脳だけで考えた文章、もっと酷いときは指先で書いた文章になりやすい。

仕事で大きなミスをして、クライアントもしくは取材先からお叱りを受けることが立て続いた。新人時代、それもライター1ヶ月目にしてしまったのが最後というような、初歩的かつ致命的なミスである。

『書く仕事がしたい』には、ライターの3段階は「①間違っていないことが書ける」「②わかりやすく書ける」「③面白く書ける」だと書いたが、この①のレベルのミスを編集者として3回見逃した。普段偉そうに人に原稿を教えている自分だが、どの口でそれを言う状態だ。先方からもお叱りを受けたが、仕事を舐めんじゃねえ、と自分自身もずいぶん厳しく自分を叱った。

②とつながるが、「ミスをしてはいけない」「間違ってはいけない」と考えるよ うになった。それが、どこからか、「私が大きなミスをすると、私の名前を X のプロフィール欄(さとゆみゼミ○期生です)に書いているみんなに迷惑をかける」に発展した。

以前、師匠のさとなおさんに「物書きは先生になってはいけない」とアドバイスをもらったことがある。近藤康太郎さんも「ライターが文章を教えるようになったら、ヤキが回った証拠だ」とおっしゃっていた。

書く人が書くことを教えることの怖さは、自分が教えたことを自分でも忠実に守ろうとすることだ。これが、自由の翼を折る。書くときのブレーキになる。守破離でいうところの「守」だけをハムスターのように後生大事にトレースするようになる。

以前は「コラム」としていたこの連載を、「コラムというよりエッセイだな」と考え直して、表記を変えた。だが、このことで、やはり自分自身が発した言葉の呪いにかかる。以前ここでも書いたが、エッセイの語源はフランス語の essayer(試行する、吟味する、実験する)にある。だから、ちゃんと思考の実験になっていなければ、と思った。しかも今月から私はエッセイ講座を持つ。この言葉で生徒さんを募集した私が、ちゃんと毎度思考実験できているだろうかと思うと、首が締まる。

加えて、「私がこのサイトの編集長でもある。その編集長が書くエッセイがこの程度か?」と思われてはみんなに迷惑がかからないか? を、なぜか背負っていた。「コラム」だと思っていたときは、そういうことはなかったのだが。ちなみに「コラム」は、囲いのことだ。新聞などで、「この『コラム(囲いの中)』の文章は、うちの会社の主張じゃなくて個人の主張ですよ」と区別するためのものだった。「さとゆみって人の個人の主張」から、「CORECOLOR 編集長のエッセイ」となったタイミングから、じわじわ何かがおかしくなった。

これまで私が書いてきたエッセイやコラムは、誰かのチェックが入っていた。

『ママはキミと一緒にオトナになる』では小学館さんの、telling,の書評コラムは朝日新聞さんの、ドラマ評は講談社さんや東洋経済新報社さんのチェックを通ったものだけが掲載されている。

どの媒体の場合も、書いた文章に修正を入れられることはそれほど多くなかったと思う。でも、事実誤認や、読者の誤読の可能性を指摘してもらって手直しをしたことは何度もある。

この『今日もコレカラ』は、誰にもチェックされずにアップしている。アップしたあと原稿をパトロールして誤字脱字を指摘してくれるゼミメンバーはいるけれど(みなさんのおかげで生きています)、そもそもこの文章どうなの? といった指摘は入らない。

チェック機能がない。これは一見、自由に書ける幅が広がるように見える。でも、実は逆だ。チェックしてくれる人がいれば、ぎりぎりのラインを攻めることができる。そして「この表現、大丈夫ですか?」と聞くこともできる。だが、チェックされないとなると、基本的に私は自分のことを信用していないので「安全側の表現をとろう」という意識が働く。

これが自分のnote でやらかすなら、個人責任である。が、このメディアでやらかすと、ここで書いてくれているみんなにも迷惑がかかるのでは? と、③に戻るループ。

かくして、そもそも、ちゃんとした人間ではないし、朝令暮改上等人間だし、エロい話に定評があったし、中身がない文章がウケていたのに、うっかり「ちゃんとした人にならなきゃ」「きちんとした文章を書かなきゃ」と思うようになったのだろう。

「ちゃんと」や「きちんと」ほど面白くないものはない。そして、「ちゃんと」や「きちんと」は、私とすげえ相性が悪い。化粧を落として寝ることもコンタクトレンズを外して寝ることも、なんならそもそも風呂入ることも心の底からめんどくせー女なのに。

ルールがあるのもすごく嫌だ。縛られるのも嫌いだ。ブラジャーをするので すら勘弁してほしいし、マスク時代は呼吸がいつも苦しかった。そんな私が、「〜であるべき」と考えたら、詰む。眉間に皺よせながら書く文章を、あとで自分が読み返してにこにこできるわけがない。

というわけで、なぜ、さとゆみの文章はつまらなくなったのか? の考察がざっと、ここまで(⑦は相手がある話なので割愛)。

では、どうすればいいと考えているかまで書くつもりだったのだけど、えらく長くなってきたので、いったんここまで。

この続きに興味がある人がどれくらいいるかわからないけれど、see you tomorrow であーる。

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