
そこに「私」もいたよなあ【さとゆみの今日もコレカラ/第369回】
スリランカに来るのは2回目で、10年ぶりだ。
10年前は3歳の息子と一緒だった。
スリランカの人たちは子どもにとても優しくて、ホテルでもレストランでも、すれ違う人、すれ違う人、みんなにこにこ顔で息子に「Hello!」と声をかけてくれる。
最初はとまどっていた彼も、2日目には「Hello!」と返すようになっていた。1日に何十回も何百回も「Hello!」と言っていた。
10日間の滞在を終えて成田空港におりたとき、息子はとまどうことなく、すれ違う人みんなに、笑顔で「Hello!」「Hello!」と、声をかけていった。でも、ほとんどの人が、その言葉に答えてはくれなかった。そして息子も、リムジンバスに乗る頃にはもう、「Hello !」と言わなくなった。
そのときのことを、よく覚えている。
みるみるうちにしょんぼりしていく息子は、いつか理科の授業で見た「しおれていく花」の映像を早回しで見ているようだった。
そして、「ああ、日本に帰ってきちゃったんだなー。日本って、そういう国だよね」と、私までなんだか悲しい気持ちになった。
まさに、子どもは大人の鏡だ。大人がどう振る舞うかによって、こんなにも態度が変わる。
と、そのときはそう思って終わり、だったのだけれど。
今、振り返って思うのは、どうして「日本って、そういう国だよね」とか「子どもは大人の鏡だよね」とか、私は勝手に達観したのだろうということだ。
んーと、つまり、「その『日本』や『大人』の中に、自分は含まれているでしょう?」「どうして人ごとのように外から目線で評価したのだろう」ということです。
うちの家族、全然ダメだよねと
子どもの頃に言うのはアリだろう
うちの会社、全然ダメだよねと
若手社員が言うのはアリだろう
でも自分が年長者になっても家族がダメなら
自分が役職についてからも会社がダメなら
それを人ごとのように言っている「私」がダメなんじゃないだろうか。
だって「私」はもう十分、その家族にも会社にも関わってきたのだ。
「日本」や「大人」全部のことを考えるのは難しいけれど、せめて半径5メートルの、「自分の手が届く範囲」だけでも、人ごとじゃないようにしたいなあと、10年経った今は思います。
なんかきょうはちょっとまじめ。
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