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大きなアート作品(徳島県 雨乞の滝)【チェアリング思考/第5回】

画家であり美容師であり、そして今はライターとしても活動したいと思っている私は、4年前から「チェアリング」をはじめました。アスファルトの上でも自然の中でも、椅子に腰かけると、そこが自分だけの空間へと変わります。そして思考が攪拌されていきます。ここで生まれる思考のことを、私は「チェアリング思考」と名づけました。2023年10月に徳島県神山町に全国からライター仲間が集まり、執筆合宿が行われました。今回は、その時に6人で訪れた「雨乞の滝(あまごいのたき)」でのチェアリングのこと。

「友達と一緒にチェアリングをするのは初めてだ。」

10月の早朝、緑に囲まれた滝壺に心地いい水の音が響く。苔の生えた岩肌を勢いよく水が駆け抜けていく。シダの葉に水滴が飛び、たわわと揺れている。45メートルの高さから3段にわかれ、曲線的に水が流れ落ちる雌滝、隣には直線的に水が流れ落ちる雄滝が姿を見せた。徳島県神山町にある「雨乞の滝」にライター仲間6人でやってきた。

徳島県神山町は多くのIT企業がサテライトオフィスをつくり、移住者も多く地方創生のロールモデルとなっている町だ。この町に全国から、コラムニストやインタビューライターなど「書く仕事」をしているライティングゼミの仲間たちが集まり、執筆合宿が行われた。

日中、各自コワーキングスペースで執筆し、夜は仲間と交流する。長く滞在する人で1週間、私は大阪から1泊2日での参加だ。神山町に車で向かう前日、「明日の朝、滝を見に行かない? 絶好のチェアリングスポットだよ!」とメッセージが届いた。「せっかくなら、みんなにもチェアリングを楽しんでもらおう」と閃き、返事をする。バックパックに折りたたみ椅子4脚とガスバーナーを詰め込んできた。

冷んやりとした滝壺のまわりで折りたたみ椅子の脚を組み立て、座面をかぶせていく。完成した椅子を手渡すと、それぞれが好きな場所に椅子を置き、腰かけた。大きな岩に腰かけている人もいる。みんなが滝を眺めはじめた。

私はガスバーナーに火をつけ、岩場に紙コップを並べていく。コーンポタージュの粉を入れ、お湯をそそぎ、ぐるりとマドラーを回す。それぞれが紙コップから上がる湯気を、ふっーと飛ばす。はぁー、というため息は滝の音色に消されていく。ある人は「自然の中で椅子に座りながら飲むコーンポタージュ、最高だね」と言い、ある人は「椅子があると長居できるね。滝がつくる水しぶきをずっと見ていられる」と言う。緑に囲まれた滝壺に、心地いい風が吹き抜けていく。

私は最後尾で椅子に座り、みんなの後ろ姿をぼーっと眺めた。座る位置も見ている箇所もそれぞれだ。手を頭の後ろに回し滝の上段を眺めている人もいれば、滝壺に視線を落とす人もいる。思いにふける横顔も見える。「みんな、何を考えているんだろう」と思いながら、椅子の背もたれに体を預けた。すると、思考がフワフワと漂いだした。

どこかで見たことがある光景に似ているな……。

思い出した。3年前に訪れた、瀬戸内海に浮かぶ直島の地中美術館だ。美術館にはモネの『睡蓮』シリーズが5点飾られた、クロード・モネ室がある。縦2メートル、横6メートルの大きな『睡蓮』を部屋の最後尾から鑑賞しようと思い、立ち位置を変えた。すると、作品を鑑賞する人たちの後ろ姿が目に映った。絵を眺め思いにふける人、腕を組んで絵の間近に立っている人、女の子がお父さんと手をつないでいる姿も見える。私は「みんな、何を考えているんだろう」と思いながら、鑑賞する人たちの後ろ姿と、その先にある『睡蓮』を同時に鑑賞した。あの時の光景に似ている。

クロード・モネ室は自然光のみで『睡蓮』を鑑賞できるように設計されており、太陽や雲の動きで空間の明るさが変化する。その度に『睡蓮』の表情も変わっていく。時間や天候、季節の変化まで感じられるように設計された空間も芸術作品だった。そんな空間全体を眺めていると、作品を鑑賞する人たちも作品の一部のように見えてきた。次第に『睡蓮』と「鑑賞する人」と「クロード・モネ室」が重なり、ひとつの大きなアート作品のように見えた。今、この瞬間、太陽の位置も雲の形も刻一刻と変化している。滝壺に射し込む光の強弱で、滝の表情も変化している。そうか……今、眺めている雨乞の滝も、“地球が織り成した芸術作品”だ。そして「雨乞の滝」と「鑑賞する人」と「緑に囲まれた滝壺」が重なった景色そのものが、ひとつの大きなアート作品と言えるかもしれない。

ひとりの女性が「自然の中で椅子に座ると“包まれる”感じがするね」と話してくれた。その言葉を聞き、ハッとした。今までチェアリングをして“包まれる”と感じたことがなかったからだ。でも、言われてみると、たしかに何か目に見えない大きなモノに包まれている感じがする。これからチェアリングを勧める時、「包まれるねんで」と伝えてみよう。

カチャカチャと折りたたみ椅子の脚をしまい、下山の準備をしている時、クロード・モネ室で聞いた言葉を思い出していた。お父さんと手をつないでいた女の子が「見て! 絵の中にカエルがいるじゃん!」と言ったのだ。私には女の子の言葉を聞くまで『睡蓮』の中にカエルは見えなかった。だけど、その言葉を聞いてから『睡蓮』の中にカエルがあらわれた。自分にないモノの見方や感じ方にふれた瞬間、今まで見えていなかった景色が見えた。ハッとする素敵な体験だった。その瞬間、自分の眉がクイっと上がったのがわかった。パレットに新しい色の絵の具をだした時に感じるようなワクワクを感じた。

ところが、女の子のお父さんがこう言ったのだ。「違うよ。それ、葉っぱだよ」と。女の子は少し考えたようだったけれど、「そうなんだ」とつぶやいた。その言葉に、ドキっとした。頭ごなしに意見を否定された女の子に、もうカエルが見えなくなってしまうのなら残念だと思った。同時に、私のモノの見方や感じ方を、子どもに、後輩に、大切な人に押しつけてはないだろうかと自分を疑った。年齢を重ねるにつれ知らず知らずのうちに、頭もモノの見方や感じ方も凝り固まってくる。まるでパリパリに乾いた濁った絵の具のようになっていないだろうかと自問した。

雨乞の滝を後にする時、私は再度自分の胸に手を当てた。

文と絵/島袋 匠矢

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