豆粒くらいの「最後かも」(西表島 浦内川)【連載・チェアリング思考/第1回】
「チェアリング」を知っていますか? 自然の中で「折りたたみ椅子」に座る遊びを指します。画家であり美容師であり、そして今はライターとしても活動したいと思っている私は、4年前からこの「チェアリング」を始めました。
アスファルトの上でも自然の中でも、椅子に腰かけると、そこが自分だけの空間へと変わります。そして思考が攪拌されていきます。ここで生まれる思考のことを、私は「チェアリング思考」と名づけました。
チェアリングしながら見た景色を絵と文章でお届けする連載です。初回は昨年の夏のこと。
「お客様のご予約便が欠航となりますことをお知らせいたします。(大阪07:25発~石垣09:50着)」と、スマホに通知アイコンが立ち上がっていた。
西表島へ3泊4日の家族旅行。搭乗予定の飛行機が機材トラブルのため、欠航になったことを出発当日の朝4時に知る。「なんでやねん!」とスマホに突っこみ、振替便の案内をクリックする。すると、3日後の出発便をオススメされた。なんでやねん。
お盆初日からトラブル続きの10日間だった。大阪で営む美容室のエアコンが故障。同じ日に電動シャッターが漏電。続いて、台風直撃で臨時休業。さらに、新幹線のダイヤが大幅に乱れ、楽しみにしていた東京でのイベントを泣く泣くキャンセル。そして、この飛行機の欠航だ。
年初に人生で初めて買った占いの本に「8月はブレーキの月です」と書かれていたことを思い出す。
我が家の年中行事である西表島への旅行は、今年で最後かもしれない。なぜなら、息子はクラブ活動に燃える中学1年生。来年の夏は公式戦がある。だから、どうしても行きたかった。すぐに別の航空会社でチケットを探す。
すると、「9時30分発の便がある! でも残席10未満!」と妻が口早に話す。
思わず「なんぼ?」と声を張りかえした。
当日予約、残り少ない席のチケットが安いはずがない。覚悟はしていた。が、斜め上を行くお値段だった。なんと、家族3人分のチケット代で、ハイエンドスマホが買えてしまうのだ。すぐさま、お金と思い出が天秤にかけられた。
やっぱり高すぎる。でも、思い出は今しか作れない。天秤の針が左右に大きく揺れる。最後は「あかん! もう席なくなりそう!」の声に背中をドンッと押され、腹をくくった。
「ほんなら、チケット取って!!」
行けなくなるのはやっぱり嫌だった。こうなったら、針が振り切れるほど思い出を作ろうと、折りたたみ椅子をスーツケースに詰め、空港へと車を走らせた。
*
「ああ……やっと来れた」。
日本一の面積を誇るマングローブ林が広がり、蒼い空に白い入道雲が浮かぶ。目の前を魚の群れが泳ぎ、川の細波がキラキラと光る。石垣島から船と車を乗り継ぎ、西表島を流れる浦内川に到着した。自宅を出発してから8時間が経過していた。
浦内川の河口には美しく月形に伸びた砂浜があり、穏やかな湾へとつながっている。潮の満ち引きにより、干潮時には川の水が海へと流れ、満潮時には海の水が川へと流れ込む。そのため、海水と淡水が混ざり合う汽水域が長く続き、海からは小魚を捕食しようと体長1メートルを超えるロウニンアジが遡上する。日本で一番魚種が多く、絶滅危惧種に定められた魚も多く住む川なのだ。
手付かずの大自然に圧倒された7年前。以来、毎年訪れている。
ライフジャケットに腕を通し、防水リュックにカメラをいれる。川へと続く木の階段を降り、赤いカヤックに折りたたみ椅子を積み込んだ。息子は1人乗りの白いカヤックに座り、パドルで力強く波を押した。舟がグンッと進む。あきらかに去年よりも進むスピードが速くなっている。
「100メートル先の橋まで勝負や!」とレースをしてみるも全然追いつけない。3年前はパドルさえ上手く扱えなかったのに。息子の成長を肌で感じる瞬間に思い出の皿に1つオモリが乗った。
木漏れ日が落ちるマングローブ林へカヤックを進めた。ヤエヤマヒルギの根がタコの足のように川底から姿を現している。水中眼鏡とシュノーケルをつけ、川の中へ静かに潜る。水面に差し込む光はユラユラと揺れるエメラルドグリーンのカーテンへと変わり、ヤエヤマヒルギの根と根の間をすり抜けていく。川底から伸びるマングローブの赤ちゃんにパンッ! とスポットライトが当たる。その下をマングローブジャックと呼ばれる30センチ程のゴマフエダイが尾びれをゆったりと動かし通り過ぎていく。水面下に広がる世界に見惚れた息子の表情に「あぁ、来てよかった」と、思い出の皿がさらに重くなった。
海から川へ水が流れこむ夕暮れ時。そろそろ、満潮のタイミングに合わせて海から大きな魚が浦内川へ入ってくる頃だ。スネほどの水深になった干潟でカヤックを降り、アンカーでマングローブの横に停泊させた。
なめらかな粘土質の土は、繰り返される潮の満ち引きと微生物の分解によりミネラル成分を多く含む。靴を脱ぎ素足になると、足裏がヌルリと大地に包み込まれた。今日のチェアリング場所が決まった。カヤックから折りたたみ椅子を取り出し、脚を組み立てる。対岸の山からセミの声が届く干潟に、カチャカチャと金属音が鳴る。座面シートを吊り下げ、椅子を置き、腰かけると、脚もヌルリと沈み込んだ。
しばらくボーッと辺りを見渡していると、膝ほどの水深の場所で1メートルを優に超えるロウニンアジの背びれが大きな波紋をつくった。と、次の瞬間。水面が激しく揺れる。
ロウニンアジが急加速し、猛スピードで小魚を追いかけだしたのだ。小魚と言ってもロウニンアジにとっては、である。30センチを超える魚を2度、3度とチェイスする。その度に水面が大きく割れ、バンッ! バンッ! と衝撃音がこだました。逃げ惑う小魚と水しぶきが宙を舞う。
何千年と続く生命の営みが、目の前で繰り広げられている。視界の先では、息子がゆったりとカヤックを漕いでいる。東の空には季節外れの渡り鳥の群れがV字編隊を組み、彼方へ消えようとしていた。
マングローブが作りだした濃い酸素をすーっと吸い込み、体の中を循環させる。そして、ふーーーっとゆっくり時間をかけてはき出していく。遠くから波の音が微かに聴こえてくる。近くでは時折水面が割れる音が響く。全身の力を抜き、背もたれに身を委ねると、椅子の脚がさらに沈み込んだ。鏡のような水面に映る空とマングローブが近くなる。風の香りにまでも「今」をじっくりと味わった。
手を川へポチャンと浸け、目を瞑る。ゆったりとした呼吸音が鼻の奥の方から聴こえてくる。西日に体が包み込まれ、意識と無意識の狭間をユラユラと行き交った。
胸の奥で温まったボールのような塊が深いタメ息と共に、腹へストンと落ちる。大きな何かに包まれているような安心感と充足感が心を満たす。内なる感情に矢印が向き、思考が深くなる。
ああ、来て良かった。去年が最後の家族旅行の思い出になっていたら、さすがに悔やまれる。
……。あ……あれ? 待てよ。
暮らしの中には、旅のような大きな最後の思い出もあれば、名もなき小さな最後の思い出もあるはずだ。
息子と一緒にお風呂に入った最後の日。
ミニカーで遊んだ最後の日。
肩車をした最後の日。
知らず知らずのうちに過ぎ去っていた、暮らしの中にある小さな最後の日を残念ながら思い出せない。もし、息子を肩車した最後の日に戻れたなら、肩に乗る重みや手の平に伝わる足首の細さまでもじっくりと味わうだろう。ありがとうと手を合わせ、思い出の皿に乗せるだろう。
日々の営みの小さなひとつひとつの出来事に「最後かも」と思いを巡らせ、噛み締めた瞬間に人生はより豊かさを増すに違いない。
……い、いや。そんなことないな。
毎日、心のド真ん中に「最後かも」を置いて、じっくり味わう程の心と時間の余裕なんてない。何よりも自分のやりたいことがありすぎるし、毎日おセンチ父ちゃんになるのも嫌だ。心の隅っこに、豆粒ぐらいの「最後かも」を置いてみるぐらいが丁度よさそうだ。
中学卒業までにいくつの小さな最後に気づくことができるだろうか。ゆっくりと目を開けると、沈みゆく日の光が浦内川を優しく包み込んでいた。ブレーキの8月は、暮らしの中にある名もなき小さな最後に気づいた夏でもあった。
文/島袋 匠矢
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