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朝練2時間は「大変」か。言葉選びと生産工場【連載・欲深くてすみません。/第2回】

元編集者、独立して丸7年のライターちえみが、書くたびに生まれる迷いや惑い、日々のライター仕事で直面している課題を取り上げ、しつこく考える連載。今日は何気ない言葉選びについて悩んでいます。

少し前に、スタイリストさんによる骨格診断を受けた。身体のラインや肌の質感の特徴をもとに、いくつかの骨格タイプに分類するものだ。身体全体に厚みがありメリハリの効いた体型が「骨格ストレート」、上半身より下半身にボリュームがあるのが「骨格ウェーブ」といったように、骨格構造による自分のスタイルの特徴を知り、似合う服や着こなし方を見つけやすくする。

ネットでタイプごとの特徴が書かれているのを見て、自己診断をしていたのだが、プロによる診断を受けてみると結果は違った。

以下は、そのときの私とスタイリストさんとのやりとりである。

ちえみ「私、あまり胸があるほうじゃないので、自分のことを骨格ウェーブだと思っていました」

スタイリストさん「ああ、骨格ウェーブの特徴に『バストがあまり大きくない』とよく書いてあるんですけど、あれは胸板の厚みの話なんです。塚田さんの言うように『貧乳なら骨格ウェーブ』というわけではないんですよ」

……ひんにゅう?

貧乳??????

へええ〜と頷きながら、私は

「確かにそのようなことは言ったが、絶対そうは言ってない」

と思った。

何気ない会話に見えて、私たちは、相手の言葉の外にあるイメージを頭の中で補完し、おぼろげな解釈をし合いながら話を進めている。私の発した「あまり胸があるほうじゃない」という言葉は、スタイリストさんの頭の中に飛び込むとスーっと低空飛行し、ほぼ平らに近い傾斜のフォルムを描いて、「貧乳」なる表現を誘った。

では「あまり胸があるほうじゃない」を「胸が小さい」と言い換えられていたら、私に違和感はなかったのか? この場合「あまり〜あるほうじゃない」のニュアンスが担う役割が大きいのではないか。しかし言葉としては曖昧で、意味が掴みにくいとも言える。何が「あまり〜ない」のか、もう少し明確にしてはどうだろう。たとえばそう、「おっぱいの体積があまりない」……おっぱいの体積?

日常の場面では気にならないが、こういうちょっとした言葉選びは、インタビュー記事の執筆となるともう少し繊細に気を配らなければいけない。たとえば「(あるニュースを見て)心がざわっとした」とインタビュー相手が言ったとする。「ざわっとした」は口語的なので「騒(ざわ)ついた」と言い換えていいだろうか。「心が騒ついた、だとなんだか仰々しくて、自分の発言の意図とは外れてしまいます」と思われるかもしれない。では「心が落ち着かない状態になった」では? それとも「心がそわそわした」?

ひょっとしたら言葉遊びをしているように見えるかもしれないが、インタビュー相手も、書くこちらも真剣だ。「あまり胸があるほうじゃない」を「貧乳」と言い換えたとき、「貧乳は『胸が小さい』という意味だから間違いではないでしょう」と思う人と、「事実をねじ曲げられた」と思う人がいる。

その逆で、ある現象や心象にぴたりと吸い付くような言葉が生まれる場面に遭遇することがある。インタビューされた人、言葉を発した本人が、別の誰かによって解釈された言葉を聞いて「私は、本当はこういうことを言いたかったのだ」と唸る。

私は、その場にぴたりと吸い付くような言葉を選んで書きたい。だけど、私の体のどこかに言葉をちくちく生産する工場があるとして、それは頭にあるのか、心にあるのか。

経験を豊富に積めば、語彙をたくさん仕入れれば、果たして工場は元気よく動くのか。

ちょっとした相槌にも、言葉を選ぶ側の「ものの捉え方」が表れてしまうことがある。以前、日本を代表するアスリートに取材する機会があった。彼は大会に向けた強化合宿の練習の様子を語り、私が相槌を打つのだが、その相槌がどうにも噛み合わない。

アスリート「最初の週は、午後の練習が23時まであって」

ちえみ「深夜の23時! 遅くまで練習を続ける大変な1週目だったんですね」

アスリート「次の週は、朝5時には練習場に集まって、7時の朝食まで練習しました」

ちえみ「起きたての朝から2時間もずーっと練習する。ハードだったんですね」

アスリート「うん……。うん?」

で、30分、話を聞き続けてようやく違和感の謎が解けた。このアスリートは、練習に行くことを「大変」とか「ハード」とかまったく思っていないのだ。ただ淡々と、練習の時間が何時から何時。時間になったら練習場に行く。それだけのことを話している。

はっと気づく。万年の運動嫌い。中学時代は体育の成績が、10段階で「3」(非常にまじめに出席した)。5分走るだけで筋肉痛の私。いつのまにか「運動」には「くぎょう」と自動でルビを振る機能が、私の中に備わっていた。そしてベルトコンベアには「“深夜”23時“まで”、“ずっと”練習した」と、ぎらぎらした装飾のついた言葉が流れてくる。

考えてみれば、言葉ひとつから浮かべる映像だって、人それぞれに全然違うのだ。たとえば「会社に戻ると、手つかずの仕事が山のように積み上げられていました」という文章を読んで、どんな映像を頭に浮かべるだろう。書類が山のように積み上がっている情景か。実際には未読メールが溜まっていたのかもしれないし、未着手のタスクや誰かからの伝言が、机の上に付箋か何かで貼り付けられていたのかもしれない。

「会社に戻ると、手つかずの仕事が山のように積み上げられていました」、それを言っている人の顔はどんな表情をしているか。疲れている、うんざりしている。本当にそうだろうか。

あまり胸があるほうじゃないは「貧乳」。長時間の運動は「ハード」。山積みの仕事を前にした人は「うんざりした顔」。言ってないし、書いてない。無意識の中で「きっとそれって、こういうこと」と解釈している。その言葉選びに「人」が出る。

「You are what you eat.」あなたはあなたの食べたものでできている、ということわざを思い出す。そんなの当たり前だろ、と思っていたが、意外と深い言葉だ。人の話を聞いて文章を書く。会話の言葉を、意味合いがしっくりきて伝わる言葉に置き換える。ただそれだけのことに、人としての生き方が表れてしまう。

現象や心象にぴたりと添う言葉を見つけたい。頭でも心でもなく、身体のどこかにある私の言葉生産工場が、すくすくと言葉をつくれるように。できればセンスよく、わあ素敵、かっこいい、独創的、最高、なんて編集者や読者から思われるような言葉をつくれますように。ところで工場は身体のどこにあるのだろう。案外、膝の裏あたりかもしれないと思って、さっきからこまめに撫でている。

文/塚田 智恵美

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