小6娘の生返事はほっとけないかもしれない『デジタル脳クライシス AI時代をどう生きるか』
もしかしたら、小学6年長女は反抗期なのではなく、すでにデジタル脳クライシスに陥っているかもしれない。本書を読み終わりまず初めに思った。
最近の私のもやもやは、長女がスマホでYouTubeを見ている姿を見ることだ。勤務先から急いで帰宅すると、長女が長椅子に寝転がりながらスマホでYouTubeを見ている姿が目に飛び込んでくる。私が「ただいま」と言っても返事はない。「ただいま」と大きな声でもう一度言ってから手を洗いに行く。19時台に夕飯を食べられるようにと私は急いで夕飯の支度を始める。
その間、「今日はどうだった?」などと長女に話しかけるが、ほとんど返事はない。夕飯の支度も進み配膳をしたいが、テーブルの上は学校からの手紙やテスト、マンガ本や文房具が散乱している。「テーブルの上を片付けて」「お茶碗を持って行って」「お箸と飲み物を用意して」と声をかけてもほとんど長女は動かない。ひどい時には食事もスマホを持ちながら取ろうとし、スマホでYouTubeを見ながら冷蔵庫に飲み物を取りに行こうとする。私は心中煮えくり返りながらも、これも小学6年生という第二次反抗期の特徴の1つでいずれ終わりがくるはずと、楽観視していた。
しかし、これが反抗期であるための反応ではなく、デジタル脳クライシスが進行しているためだとしたら? いずれ行動が改善されるようなことはなく、悪化するのみではないか。その可能性に思い当たった時、大きなシンバルで頭をバーンと挟まれたような衝撃と共に、足元からは恐怖に似た焦りが這い上がってきた。このままでは娘は打っても響かない人になってしまうかもしれない。これから私はどうしたら良いの?
酒井邦嘉先生の本書『デジタル脳クライシス』は、私が惚れ込む「多言語の自然習得」を目指す仲間のLINE情報で知った。
酒井先生は言語脳科学者で東京大学大学院教授だ。2024年1月には、マサチューセッツ工科大学言語哲学科のスザンヌ・フリン教授との共同研究において、新たな言語に触れた時に「誰が、何時、何を」習得したかを司る脳部位を初めて特定し、『Scientific Reports』(Nature誌の姉妹誌)に論文掲載されている。
私はただ、酒井先生の著作ということで本書を手にしたが、タイトルを見ても何についての話か良く分からない。しかし、読み進めると丁寧に説明があった。「デジタル脳クライシス」とは「デジタル機器やデジタル技術の虜になった人の脳が直面する危機や岐路(クライシス)」という意味合い、だそうだ。デジタル機器と脳の関係について、さまざまな研究の結果を科学的な解釈に徹して分かりやすく紹介してくれる。
簡潔さをいくぶん犠牲にしても、脳科学の専門用語や予備知識についてもその場で解説しながら、読者に語りかけるように書いたそうだ。一般市民向けの教養講座を聴くようにお読みくださいとのコメントも、心の準備をさせてくれる。「AI時代をどう生きるか」という差し迫った問いに対して、経済や効率の価値観からではなく、人間の創造性や教育の原点に立って答えをみつけようとするのが本書だ。
そもそも私はかなりのアナログ人間だ。一時期、タイピング練習もかねて社内会議の議事録を進んで取っている時期があった。タイピングが早くなるにつれて、メンバー同士の意見交換の記録がスムーズにでき、当初は充実感を感じていた。しかし徐々に、PCで議事録を取っていると議論に入ることができないし、会議後にはあまり内容を覚えていないと感じるようになった。それからは、会議の内容はノートにシャーペンで記録するのが常となった。会議中に気づいたことをノートに追記したり、あるワードを目立つように印をつけたりすると、内容の理解もしやすく、見返した時に思い出しやすい。
ただ、AI時代に乗れていないなと、古臭い人になってしまうかもしれないという小さな恐れも持っていた。その恐れが、本書では否定された。例えば手書きとキーボードの比較研究から、理解度や記憶への定着度にどの程度の差があり、なぜ手書きの方が有利なのか、脳の働きを踏まえて説明してくれる。紙vs.デジタル、脳活動の差異を実験の数値や論文を踏まえて教えてくれる。そして、脳は大人になっても可塑性を備えており環境に適応できるということを複数の実験結果にて示してくれるのだ。
アナログ人間の私だが、Duolingoという言語学習アプリとのつきあいは毎日続けて500日を超えた。英語だけでなく40言語以上を、無料でゲーム感覚で学べるアプリで、AIが一人一人にあったレッスンを展開してくれる。目のクリっとした緑色のふくろうが、毎日学習できるように声をかけ応援してくれる。
朝にDuolingoの学習を始められないと、時間の経過によって、みどりのふくろうが焦った様子になったり、泣きそうになったり、拗ねたりと姿を変える。学習中も5問正解すれば褒めてくれ、10問正解したら祝ってくれ、そのレッスンを完了すると他のキャラクターも私にポジティブな声をかけてくれる。
つい先日、なにかと上手くいかない日、Duolingoのみどりふくろうだけが、私の応援者だと感じられた。しかし酒井先生はそれを、錯覚だと、間違いだと指摘している。機械の心はあくまでゼロなのだ。
私がAIの呼びかけにどれほど反応しなくても、AIはじれることもないしイライラすることもない、ましてや怒りを感じることもない。ルールにのっとり、対象者のアクションに合わせて、ただただ承認欲求を満たすような聞き触りの良い言葉を並べるだけだ。その言葉を見て、馬鹿な私はうっかりうれしくなり、自分のモチベーションにしてしまう。決して私を非難することのないAIとのやり取りは、ストレスフリーで心地良い。イージーだ。
かたや感情を持つ人間相手だとどうか。自分の気分や状況も影響し、相手のちょっとした反応でこちらの感情も揺れる。私の声かけに娘が返事をしないものなら、私はあっという間にイラっとし、怒り、哀しくなり、絶望する。その後、娘から言葉をかけられても、通常の対応はできない。ノット、イージーだ。
そして酒井先生は言う。「新しい技術はよいものだ」と妄信するのは、とても危険な思考停止なのだと。
子どもたちがITに強くなることと、確かな思考力を身につけること、そのどちらを優先すべきか。生成AIの利用で人間の脳が進化したり賢くなったりすることなど、科学的にありえないと言う。
実際はその逆で、「対話」という人間の基本的機能の退化がAIの普及で現実に起ころうとしているそうだ。なぜなら、初めからITやデジタル機器に頼ることで自分の頭を使わなくなるからだ。
毎朝出勤前、数分間のニュースを聞きかじると、「AIによる昇進面接を実施」とか「コールセンター業務の効率化にAI」などと入ってくる。今まではAIを活用できると諸々便利になり効率化されて良いのだろうと気楽に思っていた。しかしその影響を考えることなくただ新しい技術を受け入れるだけではいけないのだ。
私が小学生だったころ。学校で友達と遊ぶ約束をした。家に帰ってランドセルを置いてから学校の門の前に待ち合わせだ。私は早く遊びたかったので田んぼに挟まれた一本道をランドセルの脇にかけた体操着を左右にブンブンゆらしながらも走って家に帰り、玄関にランドセルを置き、学校の門まで走って行った。しかし、待てども待てども友達は来ない。彼女の家に行ってみようかとも思ったが、彼女の家を知らないし、門から離れた時に来るかもしれない。何もできずにただ待っていた。夕方近くになり友達がやってきた。「お母さんが宿題を終わらせないと遊びに行っちゃちゃだめって言ったから」と。
それから鐘がなるまで少し遊んだと思う。30年以上前になるがなぜか思い出される。ところが、小学6年生の娘と友達との遊ぶ約束というと、LINEのやり取りだ。そのため、学校で待ち合わせの詳細まで決めてくる必要がなく、何かあればすぐLINEで連絡を取る。便利だが、事前に先を予想して約束し覚えるという脳の働きは不要になる。些細な例だがこのように考える力が、便利さや効率重視の半面、育ちにくくなる。
酒井先生は、以下のように警鐘をならしている。
ライフスタイルや好みに合わせてアナログ機器とデジタル機器を使い分けられるようになったのは喜ばしいことでしょうが、大人も子どもも生活全般でデジタル機器に依存しすぎていることに強い危機感を覚えます。AI(artificial intelligence 人工知能)でバラ色の未来が来るわけでもなく、無理をしてデジタル技術とつきあおうとする必要などないと思うからです
変化の激しいIT技術の発達やDXの価値観にのまれて溺れる前に、本書による科学的視点を浮き輪にし、AI時代をどう生きるか考えていきたいと思う。
さて、最愛の娘をデジタル脳クライシスから遠ざけるべく、私は何を変えることができるか。よく考えてみると以前は何としても直接伝えたり、置き手紙等で伝えてきたことを、便利さから長女に対してLINE連絡にしていたことに気がついた。昨年の始めに、お古のスマホで長女のLINEアカウントを作ってから徐々に徐々に増えた。次女はスマホを持っていないが私は必要なことを伝えられている。だから私から長女へのLINE連絡は減らせるはずなのだ。
長女に対しても、必要なことはまず対話にて伝えていきたい。アナログとデジタルを自分の意志で使い分けるのだ。小さな角度の方向転換でもその先はきっと違ってくるはずだ。
文/中村 ゆうこ
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マリアンさんのお話で興味深かったのが、バイリンガルやモノリンガルは使う言語によって意思決定が変わるということ。