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新宿で体感したジャマイカの雑踏とレゲエのリディム。『ボブ・マーリー ラスト・ライブ・イン・ジャマイカ』

どっと疲れた。この映画を見終えた僕の率直な感想だ。

旅をすると、自分の頭では理解しているつもりでも、現地に行くと一気にその理解が深まったり、自分が思っていたこととまるで違っていたり、そんな経験をしたことが誰にでもあるのではないだろうか。僕がこの映画を観た印象は、それに近い。

この週末僕は、ジャマイカまでの直行便に乗り、北端の町モンテゴ・ベイでレゲエの野外ライブを全力で体感、さらに町はずれのスラム街でインタビューを敢行、たっぷりのガンジャを吸い、マイヤーズのラムをラッパ飲みし続けた。そんな濃密な体験で、心身ともに疲れ果ててしまったのだと思う(本当は小田急線に揺られ、新宿まで行っただけなのだが)。

この映画は、1979年、ジャマイカで開催された第二回レゲエサンスプラッシュのライブを収録したもの。ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズだけでなく、ピーター・トッシュやバーニング・スピアなど、当時全盛期のアーティストたちによる、熱狂のライブを堪能することができる。

混雑した映画館、最前列の画面向かって右側の席に座り、僕の体はずっと揺れ続けていた。

ズンチャ、ズンチャ。

レゲエのあのリズムに乗って。

映画に収録されたこの演奏が、ボブ・マーリーにとって祖国ジャマイカでの最後のライブとなる。この2年後には、36歳の若さで他界している。1アーティストとしては異例の、国葬がなされたそうだ。それだけジャマイカの人々にとって、ボブ・マーリーの存在が身近で、絶大なものであったことがわかる。

ジャマイカ旅行を体験した錯覚を引き起こした理由として、映画全編を通して、当時のジャマイカを鮮明に記録していることが挙げられる。

画面いっぱいに粗末なスラム街の家並みが詳細に映し出されている。トタン板を組み合わせただけのバラック小屋が、ぬかるんだ土の上に並んでいる。容赦ない太陽に照らされたトタン板は、触れば、アチッ、火傷しそうだ。陽炎に揺れるアスファルトから、はっきりと熱風を感じ、路面に積もった砂埃混じりのその風で、僕の口の中はザラザラと乾き、金属に似た味がした。雑多な街中に落ちたバナナの皮からは、腐敗臭すら立ち昇って来る。海辺の湿度を含んだ潮の香りと共に、薄汚れた犬の鳴き声が、獣臭と一緒になって漂って来た。

ジャマイカ国民のほとんどが、スペイン、イギリス統治時代にアフリカから連れてこられた黒人奴隷の末裔だと言う。当時のジャマイカの人々の貧しさがリアルに記録されている。

まるで本当に自分がその場にいるかの様な眩暈を覚え、僕は五感をフルに使ってその情景を記憶しようとしていた。映画を観て、五感を意識したことは初体験だ。

この後さらに、五感以上の、科学的に証明されていない感覚を、レゲエのあのリズムで刺激されることになる。それは、この映画が、ラスタファリ文化を裏表なく伝えていることと無関係ではないはずだ。その単語しか聞いたことのなかった僕でも、この映画を観て、その片鱗に触れることができたのだ。

ジャマイカ、レゲエを語る上で、ラスタファリを無視することはできない。赤黄緑のラスタカラーと呼ばれる原色のストライプを知っている方も多いと思う。この祖国エチオピアの国旗をモチーフにした配色を、映画の中でもいたる所で見ることができる。アーティストだけでなく、会場の観客、スラム街の人々まで皆本当によくこの柄の衣服や帽子を身に付けている。これはジャマイカに広く浸透した、聖書を聖典とするアフリカ回帰を目指す思想運動(ラスタファリ)に由来したデザインだ。ここジャマイカは本来、自分たちの居場所ではない、故郷のアフリカに帰ろう、と叫ぶこの思想が1962年のジャマイカ独立以来、大きな広がりを見せていた。そこにもともと流行していた「スカ」や「ロックスタディ」と言った音楽ジャンルのリズムに、その思想を反映させた歌詞を載せたものがレゲエの始まりだ。

彼らは自然を信奉し、神との繋がりを大切にする。

そのひとつに「ガンジャ」の存在がある。大麻、マリファナのことだ。紫色たっぷりの煙を、皆虚ろな目で吹かしている。ライブ中、ステージの上でも堂々と吸う。その瞬間ハーブに似た甘い香りが、映画館全体を包み込んだ(もちろん錯覚だ)。

ここまで映画を観るうちに、レゲエは、ひとつの音楽ジャンルなどではなく、ジャマイカの人々の歴史と生活を凝縮した叫びそのものではないだろうか、そんな問いを抱くこととなる。

遠くアフリカの地より、奴隷として連れてこられて以来、長くイギリス植民地としてプランテーション農業で働かされ続けた彼ら。休日もなく毎日毎日、終わりのない過酷な労働によってもたらされる屈辱と苦しみは、正史において一度も植民地化されたことのないこの日本において、想像することは難しい。

レゲエは、鬱積したジャマイカ国民の怒りや悲しみ、さらには抑圧を強いる社会への反逆であり、祖国アフリカ回帰への強い渇望である、そう仮定することで、僕の中でそれまでバラバラだった、レゲエとジャマイカの関係性の積み木の城が一気に完成した。

私語すら禁じられ、山に隠れてマリファナに耽ることが数少ない楽しみの一つだった奴隷時代。そんな不遇を経験したジャマイカ国民の末裔が、やっと得ることができた「発言権」こそがレゲエなのだ、そう僕は解釈した。

この気づきに繋がったのは、繰り返しになるが、やはりこの映画がただのライブ記録ではなく、当時のジャマイカそのものを切り取った、ドキュメンタリーとして成立しているからだろう。45年以上前の空気が、鮮度を保ったまま、密閉保存されている。呼吸する度、僕の肌や、粘膜や、細胞にまでジャマイカの粒子が染み込んで来る。

レゲエに対して、自分なりの解を得た映画後半、満を持してボブ・マーリーのライブが始まる。彼はもれなくラスタカラーのシャツを着て登場する。トレードマークのドレッドヘアーが揺れる。

他アーティストに申し訳ないが、やはり、役者が、オーラが、違う。ステージに漲る緊張感がそれを証明する。

彼はライブ中、ずっと目を瞑ったままで歌う。まるで大切なメッセージをひと言ひと言、伝え漏らさぬ様にしているかの様だ。その声音の甘さと優しさに、心が自然と開くのがわかる。英語の歌詞なんか理解できなくても、ビンビン伝わって来る。五感以外の部分で感じる、本物のスピリチュアルミュージックだ。

ボブの右手は前方に突き出され、手のひらは何かを掴んで決して離さぬかの様に、力のこもった半開きだ。時折、大きく頭を旋回させるとドレッドヘアーが放射線状に広がり、その様がまるで稲妻の様に見える。漫画の集中線効果で、何か物憂げに歌い続けるボブの顔が一層強調された。ライオンの鬣にも見えるその様も手伝って、ボブ・マーリーはそこに神々しく君臨した。ボブの背後には、多くのジャマイカ人の姿が重なる。ボブとレゲエとラスタファリとジャマイカがイコールとなって、その存在は大きなひとつの塊となり、画面いっぱいに映し出された。

不思議と、威圧的な感じがしないのは、やはりレゲエ特有のゆったりとしたリズムにあるのだと思う。

ズンチャ、ズンチャ!

四拍子の二拍目と四拍目をカッティングギターで刻む独特のリズム。

ジャマイカの夏の夜、その場の気温も湿度も臭いも声も楽器も歓声も、全てが溶け合って一つの世界を造る。そこには、音楽に合わせてひとときの享楽に身を委ねる、人間の本質が詰め込まれている。レゲエが描き出す理想の世界の中で、もちろん、僕もライブ会場のオーディエンスの一人となって、汗だくになって踊った。

ボブの強烈でシンプルなメッセージが、繰り返し魂に刻み込まれる。
レゲエを、聞くのではなく、感じることができた。
僕自身がレゲエの一部に属することができた。
はっきりと、そう言える瞬間だった。

今、世界はボブ・マーリーが夢見たものとは、だいぶ異なっているかも知れない。

相変わらず戦争や争いは続いているが、だからこそ、この映画が現在に公開される意味を感じる。ボブ・マーリーの歌詞は、現在にも痛烈に突き刺さるものも多い。

奇しくも、先日獄中で亡くなったロシアの有名な思想家が、度々口にしていた言葉と、リフレインされるボブ・マーリーの代表曲の1フレーズは、同じ言葉だ。

「Don’t give up!」

観る前は、ただのライブ映画だと思っていた。
はあ、僕は、この週末、ジャマイカに行ってきた。
きっと、これは、錯覚なんかじゃない!

※タイトルの「リディム(Riddim)」は、ドラムと特徴的なベースラインで構成されるレゲエ特有のリズム体のこと。ジャマイカ英語。

文/渡辺 拓朗

『ボブ・マーリー ラスト・ライブ・イン・ジャマイカ』
2024年2月9日から、新宿シネマカリテほか全国順次ロードショー。

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