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ロックンロールがカッコよくなくて、何がカッコいいんだ?『Oasis Live’25』in TOKYO DOME 26,oct,2025

ロックとか、ロックンロールという言葉が嫌いだった。

特に、革ジャンやドクロのアクセサリーなど、わかりやすい格好だけ取り入れた「ロック」が最高にダサいと思っていた。

僕がoasisを好きになったのは、彼らがそんなステレオタイプのロックとは無縁のジャージやモッズコートを着て、Beatles直系の英国音楽を鳴らしていたからだ。主要メンバーである兄弟が仲の悪いのは有名で、ライブではステージ上で目も合わさず、いつもピリピリとした緊張感が漂っていた。

2009年にあっさりと解散してしまった原因は、やはり兄弟げんかだったようだ。その後は兄弟それぞれ別々に活動し、oasis時代の曲もよく演奏していた。でも、何かが違う。熱が足りなかった。

解散から16年。僕は今回の再結成ライブでどうしても確かめたいことがあった。なぜ、兄弟それぞれのバンドではなく、oasisじゃなきゃダメなのか。

僕は最初、満員に埋まった東京ドームの光景を忘れたくなくて、きょろきょろと周りを見回し、気づいたことをメモしていた。でもペンを持つ自分が急にバカらしく思えたのは、オープニングの曲が始まり、弟リアムのボーカルが響いた時だった。彼のボーカルを消し去るほどの歌声が、後ろからも左右両方からも聞こえて来たのだ。決して有名なシングル曲などではない。僕よりもかなり若く、決してリアルタイムでoasisを聴いていたとは思えない左隣の若者も、しっかりと歌っていた。僕はメモ帳をしまって代わりにビールを手にしたが、それもすぐに諦めて、一気に飲み干した。音を聞き逃さないように、バケットハットのつばを少し上げて、気づけば僕も声を出していた。僕だけでなく、みんな両腕を後ろで組んで、リアムの歌うポーズを真似ている。

oasisのライブでは、オーディエンスがとにかくよく歌う。それはまるで、フットボール(サッカー)のチャント(応援歌)のようだと思った。そしてこれこそが、oasisが世代を超えてみなに愛され続ける理由だろうと確信した。ここ日本において、これほどオーディエンスが英語の歌詞を一緒に歌うライブを、僕は他に知らない。

チャントには、大きくふたつの意味があると思っている。

まずは当然ながら応援するクラブの選手を鼓舞すること。

そしてもうひとつが、応援する側が一体となって団結し、フットボールの観戦を楽しむこと。

まさに、今目の前で起きていることではないか。リアムはコールリーダーそのもので、全員がoasisソングを、まるで自分の曲として捉え声を合わせている。このツアー、リアムの喉の調子がいいと評判で、僕がこれまでに聞いたリアムのどのライブよりも、確かによく声が出ていた。それでも、さすがに高音のキーは苦しそうだ。それを、観客の歌声が補完する。そう、観客もoasisなのだ。

フットボールと違って、敵も味方もない。東京ドーム全員がoasisのサポーター。5万人が同じベクトルを向くことで巻き上がる狂熱が、地鳴りとなってこだましている。この空間に立ち会えた幸福に包まれたからだろう、どこを見渡しても目頭を押さえる観客が多くいた。僕もそんな光景を、同じように何度も目頭を押さえながら見つめていた。

この渦のようにうごめくライブを経験して、僕ははっきりとわかった。兄ノエルや弟リアム、それぞれのライブでは、どうしても満たされない理由が。

oasisは、ただそこに曲があって、誰かが歌えば成立するものじゃない。僕らはoasisの曲を聴きに来ているわけじゃない。僕らはoasisを「やり」に来ているのだ。

oasisの母国イギリスでは、フットボールファンの間にこんな言葉がある。

「友人や妻、住む家は変えることができても、愛するクラブだけは変えられない」

僕らは、oasisという「クラブ」のサポーターだ。ノエルやリアムという個々の「選手」を応援しているわけじゃない。全員がoasisの一員として、一丸となって歌うためにここにいる。

だから、やっぱりソロじゃだめなんだ。

oasisじゃなきゃ、だめなんだ。

オーディエンスの全員が、oasisそのものだと実感した時、あの曲のイントロが流れ始めた。僕が大好きで、最もよく聴いた曲。

『Rock’n’ Roll Star』

ノエルのギターリフは、独特の間を放ち、挑発的に響く。この歳になっても悪ガキのギターの音だ。夜明けを連想させるそのリフに続いて、他の楽器が雪崩れ込む。トリプルギターはパオパオとうねるように蛇行して共鳴し、ベース音を引き立てる。ドラムの音はまるで東京ドームの鼓動となって会場全体を包み込む。そこに、後ろ手に腕を組む仁王立ちのリアム。威風堂々、大胆不敵。

かっけー。カッコよすぎる。無敵感が半端ない。

僕は声を出すことも忘れ、フラッシュライトに照らされた、6人のロックンロールスターを見つめていた。

「Tonight, I’m a rock’n’ roll star」

何度もリフレインするサビの歌詞を、僕も声にならない声で歌い上げる。時折目を合わせて何かやりとりする兄弟がいるだけで、今夜のoasisは多幸感に溢れている。

僕は今まで、ロックなんか知らなかったんだと気づいて、嬉しくてまた泣いた。ロックは、叫ぶことでも反抗することでも、もちろん夏に革ジャンを着ることでもなく、ただ、誰かと同じ歌を全力で歌うことだったのだ。それは今の時代を、全力で生きることと同義だ。今だから思う。「ロック」なんていう言葉に縛られていたのは僕の方だったんじゃないか。きっと、ロックはずっと自由だったのだと思う。

oasisがこれから先も続くかどうかはわからないし、そんなことはどうでもよかった。今夜、僕たちはoasisで、ロックンロールスターだった。それだけで、じゅうぶんだった。

ライブから1週間たった今でも、あの夜の余韻が残っている。

もし今、oasisの曲を初めて聴いた、高校生の自分に会うことができたのなら、こう言ってやりたい。

「ロックンロールがカッコよくなくて、何がカッコいいんだ」

文/渡辺 拓朗

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