
編集者とだけうまくいかない人間と、恋人とだけうまくいかない人間。そのメカニズムはいかに【連載・欲深くてすみません。/第35回】
元編集者、独立して丸9年のライターちえみが、書くたびに生まれる迷いや惑い、日々のライター仕事で直面している課題を取り上げ、しつこく考える連載。今日は、ライターと編集者の関係について考えているようです。
アドラーは「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」と言った。ライターにとって、もっとも近く、深く関係する人間といえば、編集者である。制作のパートナーでありチームの仲間だと、私は思っている。ただ同時に発注・受注の間柄にあるため、それが「上下関係」にすり替わってしまうと、なかなかきつい。
ライターのみなさんは、近頃いかがですか。編集者さんとのご関係は。
身近なところでも、編集者さんとの関係が話題に上がることがたまにある。あれはたしか3年前。親しいライター仲間4人で食事をしていたときのこと。その中でもっともライター歴の浅いAちゃんが、最近編集者さんとの関係がうまくいっていなくて悩んでいる、と話し出した。
特定されないように要約すると「原稿のフィードバックごとに修正の方針が変わり、振り回されている」「スケジュールについて相談したいが、いつも忙しそうで会話ができず、つい言いなりのようになってしまう」。つまり、自分が対等に扱われていないのではと悩んでいた。同席したBちゃん・Cちゃんは「わかるよ、私も昔そんなことがあった」「よくある話だよ」と共感したり、具体的な解決策を提示したりと、優しく寄り添っている。
さて、そのころ私はというと。
優越感がむくむくと立ち昇り、天に向かって激しく伸び、麹町の小さなワインバルの天井を突き破ろうとしていた。
だって私、そんな編集者さんとのお付き合いは、まったくない!
制作の内容で意見が異なることはあっても、対話ができる。お互いに、尊重しあっている実感がある!
私ってば、人間関係を築くのが得意なのかも? 陰キャで内向的だと自認していたのだが、意外とコミュ力あるのかも??
ふへへへ、とにやけてアヒージョを口に入れると、オリーブオイルの熱に、じゅっと舌が焼かれた。
その痛みとともに、ちょっと予想外の方向に思いが至り、私はおずおずと話し出す。
「あのー、いまの話、私は仕事で編集者さんとトラブルになった経験がないんだけど……」
へー。よかったね。そりゃあなたはたまたま恵まれているだけでしょう。悩んでいる人の前でうまくいっている話など聞きたくないわ、と3人が目を伏せる。
「うん、仕事ではそんな関係性になることはなかったと思うんだけど……プライベートでは山ほどあるって、いま気づいた。これはどういうことなのでしょうか」
6つの目玉が、ぎゅん、と私のほうを向いた。爛々と輝き「詳しく聞かせな」と、のたまう。
かくして私は私生活(まあ要するに恋愛関係)における「対等な関係が築けていないと感じた例」「相手の言いなりになってしまい、振り回された例」「相手にすがるものの都会の片隅に放置され、中島みゆき氏の名曲『タクシードライバー』の歌詞に出てくるような、道の真ん中で泣いている酔っ払いの女になった例」について語り尽くした。
「こわいこわいこわい。どれも経験がない。私は、夫に非常に大切にされている。いますぐ夫に感謝したくなった」と、今度はAちゃんの優越感が天井に穴を開ける。
編集者とは、対等な人間関係が築けなくなる人。
片や恋愛では、対等な人間関係が築けなくなる人。
どういうメカニズムで、こんなことが起きるのでしょうか。
誰か教えて。
*
そのときはワインを1人あたり1本以上開けたので「Aちゃんは職業人としての自分に自信がなく、貴様は女としての自分に自信がない」と、Bちゃん・Cちゃんに適当に結論づけられて解散したのだけど。
果たしてこれは「自信」の問題なのだろうか、ということを、ちょっと考えてみたい。
過去、対等な人間関係を築けなかったときを振り返ってみると、
「私なんかが主張していいのだろうか」
「忙しい相手に対して、いま余計なことを言ったら、ここで関係が途切れてしまうかもしれない」
なんて気持ちがブレーキになって、うっかり相手の言いなりになってしまうことが多かったように思う。
これ、一見すると、卑屈で自信がなく、空気を読んでいるように見えるかもしれないが、本当にそうだろうか。
「相手にとっても自分にとっても、良い関係を築くこと」よりも「いま、この瞬間、自分が損をしない(恋愛ならフラれない、仕事なら依頼が途切れない)こと」を優先した、利己的な行動とも言えるのではないか。
自信のなさを盾にして、自分のことしか考えていない。余計なことをしてリスクも責任もとりたくないから、言いなりになってしまう。
……えーっと、書きながら心の出血が止まりませんが、続けます。
一方、対等な人間関係を築けた感覚があるとき、私が常に自信たっぷりだったかというと、そうでもない。
私の場合は、出版社の編集部で勤めた経験があることが、編集者さんとのコミュニケーションに、非常に大きく影響しているように思う。
20代のころ、編集者としていろいろとポカをし、仕事を依頼したライターさんやデザイナーさんを怒らせた経験がある。単純に自分の実力不足のせいでもあるし、時には、相手には見えていない事情があることも。偉い人の気まぐれや組織の論理に振り回されながらも、仕事相手にはけっして言えない、その態度が結果として、プロフェッショナルである相手を軽んじることになってしまったことも、ある。
つまり、かつての自分を思い出すと「編集者にもいろいろ事情があるし、完璧ではいられないもの」と想像できるのである。いまの私は会社の内部事情とは無縁なので、社外の専門職になったからこそ出せるアイデアもあるし、頓智もきくかもしれない。かつて未熟な自分にも力を貸してくれたライターさんたちのように、できるだけ相手の力になりたい。偽りなく、本気でそう思っている。
ただ、そのためには、自分が何をしたくて、どこまではできて、どこからは許容範囲外なのか、しっかりと相手に示さなければいけない。伝えるべきことは伝えるのが相手のためでもあるな、と冷静にわかる。
このように考えていくと、相手の立場を想像すること、思いやること、そして長く無理なく良好な関係を築いていきたいと願うことが、実は「対等」なコミュニケーションの本質のようにも思う。
*
思いやればこそ、適切な主張をすべし。
いやはや「自信がない」と言われるより「思いやりがない」と言われるほうがきついな。
と、主に恋愛文脈で猛省している私なのであった。
文/塚田 智恵美
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