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「なりたい職業ランキング」トップ10に入るまで辞めない!  農業を子どもたちの憧れに変える、香取夫妻の10年とこれから【リレー連載・あの人の話が聞きたい/第14回】

千葉県我孫子市の住宅街。その一角に、生命力あふれる8,000平米の広大な畑が広がっている。ここで年間50品目150種類の野菜を育てるのは、「ベジLIFE!!」の香取岳彦さんと郁美さん夫妻だ。

独立から10年。数々の困難に直面しながらも、笑顔を絶やさず自分たちの「理想の農業」を形にしてきた香取さん夫妻。かつては世界を飛び回る商社マンと公立学校の先生として多忙な日々を送っていた二人は、なぜ安定したキャリアを捨て、未経験から農業の世界に飛び込んだのか。二人の歩みとこれからの景色について、話を聞いた。

聞き手/中條 ふみ

人生は一度きりだから

大学院を卒業した岳彦さんは商社に入社。国内営業から海外営業の部署に異動してからは、日本と海外を頻繁に往復する日々が続いた。ちょうどそのころ生まれた長女や妻の郁美さんと、一家団欒を楽しむ余裕はなかったという。

父方の家が代々農家だったと知ったのは、社会人6年目のころ。当時は更地になっていた8,000平米(8反)の土地は、かつて祖父母が野菜を作って出荷していた畑だった。「祖父から『おまえが生まれる前はここ一面で野菜を作っていたんだよ』と言われて本当にびっくりして……。先祖が守ってきたこの土地を、自分の手で復活させたいと思ったんです」と岳彦さん。本やネットで知識を蓄えてから週末は複数の農家でボランティアをして、生の声をたくさん聞いた。平日は会社員、週末は援農ボランティア。そんな日々を数か月続ける中で、農業に益々惹かれていった。

「人生は一度きり。将来は起業したい」と学生のころから思っていた岳彦さんは、就職活動中も臆することなく、将来の野望を面接で伝えていた。はじめから退職前提の自分を採用してくれた会社に、絶対に恩を返そうと心の中で誓ったという。たくさんの本を読み、必死に勉強をして、どんな仕事にも果敢に挑んだ岳彦さん。気づけば営業成績は社内でトップクラスに。会社が自分に投資してくれた分だけの利益は残せたと思い、上司に退職の意向を伝えた。

「週末に1日2日畑に行っているだけじゃ、調べが甘いんじゃないの?」上司から返ってきたのは思いがけない言葉だった。さらには上司の計らいで、1か月も有休を取得できることに。4軒の農家のもとへ研修に行き、農業界では若手と言われる30から50歳ぐらいの就農者から苦楽を聞いた。「楽しいことも大変なこともあるけれど、仕事ってみんなそうだよね」と口をそろえる姿を見て、自分も一員になれるかもしれないと思ったという。上司も、農家への転身を応援してくれた。

一方で、岳彦さんの祖父母や両親は大反対。安定した仕事を辞めるなんてもったいない、と。ちょうど第2子が生まれたころだった。家族で唯一背中を押してくれたのは、郁美さん。「出張ばかりで一緒に過ごせない日々を思えば、むしろ大賛成でした」と笑顔を見せた。

農業に就いたらいいことばかり! と言えるように

脱サラ1年目。岳彦さんは修行先の農家でアルバイトをしながら、合間を縫っては実家の畑を耕し、野菜を作り始めた。公務員だった郁美さんは、育休中。当時の生活は思い描いていた理想の暮らしからはかけ離れていた、と話す。「3歳児と0歳児のお世話をしながら彼のお弁当を作って、私が運転する車で彼を修行先まで送迎して……。畑に着いたら子どもたちを夫の両親に預けて、私も畑仕事。当時は夜間授乳もあって、寝不足でした。日が暮れるまで働き、食卓に並ぶのはスーパーのお惣菜ばかり。体にいいものをつくろう! と毎日励んでいるのに、一体なにをやっているんだろうと自問自答しちゃいましたね」

創業前から、一般消費者への直接販売を主要な販路として考えていた香取さん夫妻。最初の1年間は作った野菜を知り合いに無料で配り、感想を聞いては次の野菜作りに活かした。草むしりや土づくりから発送作業まで夫婦二人三脚で、ときには子どもをおんぶしながら汗を流した。少しずつ時間に余裕が生まれ、自分たちの野菜をふんだんに使った夕飯を、家族みんなで楽しめるようになったという。「家族でたくさんの時間を共有できるようになりました。収入も平均年収に届くほどになったので、自分たちとしては満足していた部分もあったんです」と郁美さん。

ところが、独立後も続けていた農家訪問で知り合った農家さんの言葉に、香取さん夫妻はスコーンと頭を殴られたような衝撃を受けたという。「『安定した職業を手放して農家になったのに、会社員のとき以上に稼げなくていいの?』と言われて、目が覚めましたね。農業に就いたら稼げるし、家族との時間も取れて私生活もめちゃくちゃよくなるし、いいことばかり! と堂々と言えるようにならなくては、と思いました」

やるからには、農業を子どもたちの憧れに

野菜はスーパーや八百屋にも卸しているものの、販売先の65%は産直ECサイトを通じた個人のお客さんだという。「子どもたちにも安心して食べてもらいたい」と農薬不使用栽培にこだわって作った野菜たちは、「味の濃さにびっくりした」「野菜本来のおいしさを知った」とリピートする人が後を絶たない。 多品目栽培もベジLIFE!!のウリ。ピーク時よりは減ったものの、現在は50品目150種類ほどを作っている。「多品目栽培には器用さが必要ですが、作業が単純化しないので飽きないんです。なにより、労働時間を平準化したくて……」と岳彦さん。単一品目の場合は、どうしても季節による労働時間の差が出やすいという。「最近は夏が暑すぎますよね。暑い中で無理してがんばるのではなく、長期保存しやすい寒い時期に、いかにたくさん作るか。一年を通して、出荷も労働環境も安定するように工夫しています」

農業を始めるとき、自分たちの持つ強みについて考えた。「うちの強みは都心から近くて農業体験にも来てもらいやすいこと。そして、子どもの相手をするのが得意なこと」。昔から子ども好きだった岳彦さんは学生時代に毎年、ボランティアリーダーとして子どもキャンプに参加。郁美さんは小中学校の先生だった。「農家として野菜を作るだけでなく、子どもの農業体験にも力を入れたい」と心から思った二人。やるからには、農業が子どもたちの憧れの職業になることを目指したい。『なりたい職業ランキング』のトップ10にランクインするまでは辞めない、と宣言している。

お金がすべてではないですが、と前置きをしつつ、「子どもたちの『憧れ』となるためには、稼げる農業をしないと」と話す岳彦さん。「小学生に対して、『素敵なライフスタイルを実現できます!』と言っても、響かないと思うんです。自分たちが食べるものを自分たちで作って、しかも稼げるんだ、となれば興味を持ってくれる子が増えるのではと思っています」

子どもたちに興味や憧れを抱いてもらうために欠かせないのが、農業体験の受け入れ。近年は、年間約500人の子どもたちを受け入れているという。保育園児が遠足で芋掘り体験をしたり、小学生が社会や理科の授業の一環で畑見学に来たり、林間学校のプログラムで農作業をしたり。夏休みには職業体験先として農家を選んだ中学生が来るほか、入学後のレクリエーションの場として高校生に畑を提供することもある。近隣だけでなく遠方から訪問するケースも多く、まさにベジLIFE!!の強みが発揮されている。「子どもたちが実際に畑に出て、楽しい経験を積んでもらうことが、将来につながると思うんです。そんな草の根運動で、農業の楽しさや魅力を広めたいですね」

理想の実現と、さらなるチャレンジ

自分たちで作った野菜を販売するようになって、2026年で丸10年。たくさんの困難に立ち向かいながら家族、そして一緒に働く仲間と、自分たちが理想とする農業を少しずつ形にしてきた。改めて、農業の世界に飛び込んでよかったと、10年間を振り返る岳彦さん。「農業に就いて特によかったのは、自分や家族が健康になったことと妻がご機嫌になったこと。そして、利他の精神をもつ人たちが畑に集まるようになったことですね」。岳彦さんの横で、郁美さんも目を細めた。「いまの暮らしは、思い描いていた暮らしにとても近いです。楽しさも大変さも共有しながら、家族と一緒に人生を歩けている気がしますね」

8,000平米からスタートした畑は、10年で5倍の40,000平米になった。当初は野菜だけ作っていたが、5年前からは果物作りにもチャレンジ。昨年はブルーベリーに加えてキウイが豊作だったとのこと。「目指すのは田舎のおばあちゃんの家のような農園。行くたびにちがう果物がなっていて、素朴だけどおいしいものがいっぱいあるのが理想ですね」と郁美さん。岳彦さんは、「2026年はお米作りに挑戦する」と意気込む。

農業が子どもたちの憧れの職業になる日まで、二人の挑戦はつづく。(了)

文/中條 ふみ

2025年末に完成したログハウスは畑を訪れる方々が集う場所として活用予定。

香取 岳彦(かとり たけひこ)

東京都多摩市出身。農業団体ベジLIFE!!代表。大学院を卒業後、化学系専門商社に入社。退職後、1年間の農業研修を経て独立。江戸時代から代々続く農地で、「無農薬」「有機肥料」「旬の野菜」にこだわった農業を営む。趣味は読書とテニス。4児の父。好きな野菜はカリフローレ、カブ、ミニトマト。

香取 郁美(かとり いくみ)

茨城県石岡市出身。大学卒業後、茨城県内の小中学校教員として勤務。現在は保育園児から中学生までの4人の子どもを育てながらベジLIFE!!を支える。趣味はDIYと植栽。好きな野菜はスナップエンドウ、アレッタ、ミニパプリカ。

ベジLIFE!!

千葉県我孫子市都部111
Instagram:https://www.instagram.com/vegelifeabiko/

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