
新しいはじまりの4月。すべてを『うけたもう』してみる。【連載・聖の言葉と俗を生きる/第1回】
キャリアコンサルタントであり、山伏であり、真言宗の僧侶でもある、清乃(きよの)。 俗と聖を往復しながら見つけた、人生の「道」を照らす言葉を届けます。
「先生、お尻を触らせていただけないでしょうか」
ほお、という表情をしたのち、先生は「どうぞ」、と後ろを向く。
ふわふわしたお尻のお肉に、私が両手をそっとあてた瞬間、先生は力を入れた。
お肉の下の筋肉が、シュレッダーが紙を飲み込むように外側から中心に向かってギュルギュルとねじり込み、お尻はたちまち固くなる。
「ええええええ、こんな風に動くんですね!?」
じっと見ていたほかの受講者たち数人が、「私も私も」と先生のお尻に両手を触れては、おおお、と声をあげた。
これは、数年前に受けた、舞踊家による「身体の使い方」ワークショップのワンシーンです。
お尻の使い方を口頭で説明してもらったけれどイマイチつかめなかった私は、お手本を実感したく、直接触れることをお願いしました。
いくら言葉で説明されても、あの筋肉の動きはつかめなかった。
体験が、思考を追い越した瞬間でした。
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はじめまして。
日々、ビルだらけのオフィス街で研修に登壇し、キャリア=仕事を含む「人生の道」をより充実させるお手伝いをしています、渡辺清乃と申します。
加えて、夏から秋にかけてはスーツ&ハイヒール姿から一転、真っ白な装束で山に入って荒行をする行者=山伏に。また、季節に関係なく袈裟をまとった真言宗の僧侶として、「修行という道」を歩んでおります。
山と街。
聖と俗。
一見すると離れているようなこの2つ、私にとっては地続きです。
この連載では、お山やお寺での体験を、私がどのように街の生活へ橋渡しして生きているのか、その風景を書いていきます。
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さてさて、4月になりました。
私は連日、新入社員研修に登壇しています。
そこでよく使う言葉があります。
「ちょっとやってみて」
たとえば、
新「もし、応接室に通されて、マニュアル通りの座席配置になっていなかったらどうしたらいいですか?」
私(座席を動かしてみてから)「じゃ、これだったらどうします? ご自分なりにやってみて」
正解を指し示すより、状況に直面してもらいその場で考えさせる。
まずは身体を動かしてもらう。
実はこれ、「山伏流の学び方」を忍ばせているのです。
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私が正式な山伏修行をしているのは、山形県・出羽三山。
羽黒と呼ばれるこの辺りの修行場では、修行中に独特の言葉を使います。
「うけたもう」です。
たとえば自分の名前を呼ばれたら。
たとえば師匠(「先達」といいます)から指示を受けたら。
どんなことでも「うけたもう」と応えます。
修行の内容は事前に公表されないので、この後、何があるのかわからなくても。
天候の変わりやすい山の中、突然大雨が降っても。
とにかく、「うけたもう」。
「受けます」という意味で、「うけたもえず」という言葉はありません。
ビジネス現場のように、目的を言われることもなく、アウトカムを保証されることもなく。
目の前で起こることを、まずは受け止める。やってみる。
身体の体験を通して、自ら何かをつかんでいく。
これが、古くからの山伏の姿です。
でも。
聖なる修行も、俗なる仕事も、「ナマモノである世界と、身体を通して交流する」という点で、何の違いもないのではないでしょうか。
たとえば、想定外のレイアウトの応接室に遭遇したとき。
その場で状況を引き受け、なんとかやりこなすしかありません。
応接室は小さな話ですが、そもそも仕事も人生も、目の前で起こることを受け止め、未知なる道を歩いていくことの繰り返しです。
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山伏になって8年になります。
変わったことはいろいろあるけれど、「とにかく試してみる」「体験してみる」に積極的になりました。
(もとから、先生のお尻を気軽に触る人ではなかったのですよ)
私たちはつい、理解してから動こうとします。
正解を探し、間違えないように、予防線をはりたくなります。
過去の情報の蓄積をたどった答えは、AIがすぐ出してくれます。
でも、舞踊家の先生のお尻の筋肉の感触は、いくら調べてもわかりません。
学びは、「見て」「聞いて」「読んで」だけでは未完成です。
近づく。触れる。試す。
五感で学んだことは、身体に刻まれます。
見学している限り、人生は変わりません。
身体ごと飛び込んだ瞬間から、世界は動き始めます。
私はそれを、何度も山から教わりました。
新しい出会いに溢れる4月。
今日あなたが向き合う仕事も、思いがけず訪れる出来事も、そもそも毎日の人生も。
これまでより「うけたもう」精神で過ごしてみたら、何が起きるか試してみませんか?
文/渡辺 清乃

