
人はなぜ、物語を求めるのか ———映画『今日からぼくが村の映画館』
選択に迷っていたとき、突然目の前がぱっと開けたような経験がある。たとえば就職先の会社を決めるとき。大企業と中小企業で迷っていたが、「小さな会社だからこそ、自分の声が経営層に届きやすい」という先輩社員の話で心が決まった。あるいは、子供の学校を決めるとき。偏差値の高い学校と新しい教育コンセプトの学校とで迷っていたが、「これからは知識よりも、自分で問いを立てて探究する力が大事だ」という校長の説明で腑に落ちた。さらには、結婚相手を決めるとき。私の今までの環境にはいなかったような人だったが、「他に価値観を委ねずに自分の心に従って生きてゆく」というその人の言葉に迷いが晴れた。いずれも、その道を進む自分の姿が見えたような瞬間だった。私の心を動かしたものは、いったい何だったのだろうか。
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映画『今日からぼくが村の映画館』の試写会に行った。初めて見るペルーの映画だ。
「アンデス版『ニュー・シネマ・パラダイス』の誕生!」
「誰もが映画と出会った”あの日”を思い出すハートウォーミングストーリー」
こんな紹介フレーズからは、映画への憧れや、若き日の郷愁を描いた物語を想像する。しかし、それとはまったく違うストーリーに驚かされることになる。
舞台はペルー・アンデスの山あいの小さな村。村人たちは家畜の世話をしながら、貧しく倹しい生活を送っている。あるとき近くの町に移動映画館がやってきて、少年シストゥは初めて見た映画に心を奪われる。しかし、映画はスペイン語で作られており、先住民の言語であるケチュア語を話す村人たちには受け入れられなかった。そこで、学校教育を受けていたシストゥが、町に通い、映画を見て、その内容を村人たちに伝える役を担うようになる。だがある日、移動映画館が突然姿を消す。困ったシストゥは、自分自身で物語をつくり村人たちに聞かせるようになる。
意外な話の展開に、少し戸惑った。これは、「映画」そのものではなく、その根底にある「物語」にフォーカスした話だったのだ。
シストゥがつくる物語は、はじめは村人たちにあまり喜ばれなかったが、徐々に村人たちの心を掴むようになっていく。そして、映画の終盤、シストゥがある印象的な物語を語る。
これを聞いたとき、観客の我々、試写室の空気が一瞬シンとなった。もともと静かだった試写室が、さらに深く静まった。そしてその静けさの中に、癒されたような空気が訪れた。
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映画の帰り道、このシーンが頭から離れなかった。シストゥの物語は、なぜあんなに心に響いたのだろう。物語によって、現実が変わるわけではない。なのに、なぜ心は救われたのだろうか。
村人たちが物語を求めたのには、アンデスの歴史的、文化的背景も絡んでいたと思う。劇中で、突然やってきた「映画」という存在は、西洋文化の象徴として描かれていた。貧困ゆえに若者が村を出て都会に流出し、二度と帰ってこなくなる様子が描かれており、消えゆく先住民族の憂いを感じさせていた。そんな日々の中で、シストゥの物語には、アンデスの人々が先祖から受け継ぎ、大事に営んできた思いや暮らしが表れていた。その物語に村人たちは、生きる誇りを取り戻したに違いない。静かに聞き入る村人たちの姿。光を宿したようなまなざし。彼らの心に、シストゥの物語が沁み通っていく様が見えるようだった。
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「物語」とは何なのだろう。
人は、目の前の現実のみによって、自分の生き方を決めるわけではないのかもしれない。過去の事実によって、心を動かされるわけではないのかもしれない。現実を意味づけし、何に価値を置くのかによって、これから進む方向が決まってくるのではないか。何を大事にして生きるか。その大事なものを守りながら生きるとはどういうことなのか。どのように進むことが自分にとって幸せな生き方なのか。「物語」は、その道筋を頭に思い描かせてくれる。その道を行く自分の姿をイメージさせてくれる。「物語」には、道を照らす力があると思う。人が物語をつくるのは、現実を、自分が生きてゆける形に語り直すためなのかもしれない。
本作は、4月17日(金)より、新宿武蔵野館ほか全国映画館にて上映中。
文/草薙 曜子
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