
「病院に犬がいるなんて!」から始まった、ベイリーと森田さんの物語【リレー連載・あの人の話が聞きたい/第15回】
ライターの森佳乃子です。24歳になった娘が10歳のとき、悪性リンパ腫と診断され入院しました。かつては「不治の病」だった病気が、現代では医療の進歩により治る病気になっていることを知りました。しかし、治療は文字通り命がけです。薬の副反応による脱毛、吐き気、重症の口内炎。さらに、痛みの伴う辛い検査。どれも子どもたちにとっては辛いものです。「この子はどうなるのだろう。この子に『未来』はあるのだろうか」と、親としても不安でした。それでも治療を受けないという選択肢はありません。
娘の入院中、重い病気の治療を受ける子どもたちに寄り添う「ホスピタル・ファシリティドッグ®」(以下ファシリティドッグ)の存在を知りました。初代ファシリティドッグとして活躍した「ベイリー」と、ファシリティドッグ育成の現在(いま)について、初代ハンドラーの森田優子さんにお話を伺いました。
聞き手/森 佳乃子
重い病気の子どもたちを応援してくれる犬たち

1頭のゴールデン・レトリーバーのリードを持って、少女が歩いている。すぐ隣には、寄り添うハンドラーの姿。ここが公園なら、よくある景色かもしれない。しかし、少女がいるのは白血病や悪性リンパ腫、神経芽腫や脳腫瘍など、重い病気の子どもたちが治療を受ける「こども病院」だ。廊下の先に待っているのは医師や看護師たち。少女が向かうのは放射線治療を受けるための部屋。
初めて放射線治療をすることになったとき、主治医はこう考えていた――この少女は怖がりな面があるので、じっとしていられないだろう。鎮静剤を使い眠っている間に行うしかない、と。少女を担当していた看護師は、少女の恐怖心を和らげ、薬を使わずに治療する方法を探していた。
ファシリティドッグの出番だ。治療を始める前に、ファシリティドッグと過ごす時間を重ねたことで、少女はファシリティドッグが寄り添っていれば、心を落ち着かせて過ごせるようになった。そして、ファシリティドッグと医療者たちの連携を得て、少女は鎮静剤を使わずに放射線治療を受けることができたのだという。
血液がんの子どもたちは入院中に何回か「マルク」をする。マルクとは、骨髄穿刺のこと。検査のため、腰に太い針を刺して骨髄液を抜き取る。入院中、わたしの娘にとって大嫌いな検査のひとつだった。「明日マルクね」と看護師に告げられると、表情が曇る。検査後も2、3日はずっと腰が痛い、と言っていた。
さらに子どもたちを不安にさせる理由がもうひとつある。それは骨髄穿刺をする処置室に親は入れないこと。手をつないでくれたり、背中をさすって気を紛らわせたり、涙を拭いたりしてくれるお父さんやお母さんは、そばにいない。
「ひとりで行くのはイヤだな」
そんな子どもたちの不安に寄り添ってくれるのがファシリティドッグだという。ファシリティドッグの話を聞いたとき、娘の入院していた病院にもいてくれたらいいのに、と思った。
ファシリティドッグは子どもたちが「しんどい」とき、一緒にいてくれる。リハビリに付き合ってくれることもある。わたしも骨折したことがある。リハビリは痛いし、松葉杖も扱いなれなくて疲れる。病院の廊下を歩く練習も飽きてくる。正直、やりたくない日だってある。でも、ファシリティドッグが一緒に歩いてくれたら、きっと楽しいだろう。
ベッドで寝ていなければいけない日や、抗がん剤の副反応で吐き気が強くて、起き上がることも食べることもできない日もある。そんなときもファシリティドッグが応援に来てくれる。ベッドで一緒に添い寝してくれることもある。ファシリティドッグのぬくもりを感じていると、痛みやひどい吐き気も少し和らぐのかもしれない。
子どもたちはみんなファシリティドッグが大好きだ。今日はいつ来るかな? 退屈な入院生活も、ファシリティドッグがいるからちょっとだけ楽しい。
子どもたちは病気の治療のために家族と離れ、長い場合は1年もの間入院して治療を受ける。毎日の検査、抗がん剤による治療、きつい副反応。ときには何度も手術が必要になることもある。大人なら、検査の意味も、手術やリハビリの必要性もわかる。痛くても健康を取り戻せるならと我慢もする。でも、子どもは違う。イヤなものはイヤなのだ。
病気を治療するためには、痛みや辛いことがあるのは仕方ないのかもしれない。でも、小児がんの治療に長年携わってきた医師や看護師たちは、子どもたちの“こころ”を守りながら、治療を行う方法を模索してきた。
その答えのひとつが「ファシリティドッグ」という取り組みだ。
「ファシリティドッグ」は、盲導犬や介助犬と同レベルの専門的な訓練を受けた犬で、患者に寄り添い、治療をサポートする。手術室に付き添い、リハビリの必要な子と歩く。なかなか薬を飲めない子どもの応援に行き、一緒にサプリを飲むこともある。ただ静かに傍らに寄り添うだけのときもある。子どもが治療に取り組めるように、そっと背中を押してくれる。
日本初のファシリティドッグ「ベイリー」

「『ベイリーと一緒ならがんばれる』と、たくさんの子どもたちが辛い治療を乗り越えてきました」と話してくれたのはベイリーとペアを組んでいたハンドラーの森田さんだ。
「ベイリー」は、日本で初めてのホスピタル・ファシリティドッグ®としてハワイで訓練を受けたオーストラリア生まれのゴールデン・レトリーバー。「ファシリティ」、すなわち裁判所や病院などの施設で活動するファシリティドッグのうち、病院で活動する犬がホスピタル・ファシリティドッグ®。現在、国内で活動中のホスピタル・ファシリティドッグは6頭(うち2頭は実地研修中)。ハンドラーは皆、5年以上の臨床経験を持つ医療従事者。その経験があるからこそ、子どもたちの様子を見ながら必要な指示をファシリティドッグに出し、そのときに必要なサポートが行える。ファシリティドッグとハンドラーは、病気と闘う子どもたちだけでなく、治療を行う医療スタッフにとっても力強い味方だ。ファシリティドッグがいることで子どもの治療が順調に進むだけでなく、動物がいることでスタッフの緊張感もほぐれる。気の抜けない治療や看護の日々の合間に犬と触れ合う時間は、医療従事者たちにとっても癒されるひとときになっているという。
日本で初めてのファシリティドッグとしてやってきたベイリーと出会った日のことを、森田さんはこう語る。

「ハワイの明るい太陽の下でベイリーと会ったとき、真っ白な毛がキラキラしていたのを覚えています。ベイリーは“おっとりさん”で、他の犬たちが飛び上がれるような高さの椅子にも一度では飛び上がれず、ベイリー用にステップを置いてもらっていました。また周りで大きな音がしたり何かが急に動いたりしたときにも、驚きませんでした。これは病院という特殊な場所で働く犬には重要です。病院では、突然大きな音でさまざまなアラームが鳴り響くことがあります。また、手術後の子どもたちは点滴のルートや心電図の電極、酸素マスク、ドレーンチューブや人工呼吸器などにつながれており、抜ければ命にかかわるものもあります。添い寝するときには引っかからないように、注意深く、ゆっくり動かなければなりません。ベイリーのおっとりした性格は、子どもたちに寄り添い、病院で働く『ファシリティドッグ』にぴったりだと思いました」
森田さんが初めてベイリーに会ったときに直感したように、ベイリーは「ファシリティドッグ」という新しい支援の形があることを日本の小児医療界に知らしめた。しかし、その道のりは決して平たんではなかった。
「犬がいる!」と叫んで少年は起きあがった

16年前、日本に初めてファシリティドッグのプログラムを導入したのは、小児がんや重い病気の子どもたちを支援するNPO法人「シャイン・オン!キッズ」。
ベイリーと森田さんは2009年に日本初のファシリティドッグとハンドラーになった。しかし、勤務先となる病院がなかなか決まらない。病院側にも戸惑いはあっただろう。無理もない。なんといっても場所は病院である。病院に犬! それまで前例のない、まったく新しい取り組みだった。11月になって静岡の「こども病院」がようやく手を上げてくれた。しかし、病院の中では受け入れに慎重な声も多かった。感染症の心配はないのか。犬が噛んだり暴れたりすることはないか。電源やケーブル、チューブなどの医療機器に引っかかって思わぬ事故が起きることはないか。
「子どものためになるのなら、やってみてもいいのでは」。ひとりの医師の後押しを得てベイリーと森田さんは、静岡県立こども病院で「1週間のお試し期間」を提案された。しかし、活動を許可されたのは外科病棟のみ。子どもたちがベイリーに触れることは禁止された。初めは病室にも入れず、病棟の廊下を歩くだけ。それでも、ファシリティドッグの効果は絶大だった。
当時、「漏斗胸(ろうときょう)」の手術を受けたばかりの少年が入院していた。リハビリのためには早期の離床が望ましいのだが、術後の痛みもあり、医師や看護師がどれだけ励ましても少年は頑として起き上がろうとしなかった。そんな少年にスタッフが声をかけた。「ほら見て。ベイリーが来たよ」。少年は看護師が指さす方に目を向けた。
「『犬がいる!』と言って、それまで誰がどう励ましても起きようとしなかった少年が、勢いよく起き上がったのです。医師も看護師もお母さんも、みんなびっくりしていました。『なんだ! 起きられるんじゃない!』と。そのとき、病室にふわっと風が吹いたような気がしました。そのできごとがあってからです。病院内の雰囲気がいっきに変わったのを感じました」と、森田さんは当時を思い出して話してくれた。
1週間のお試し期間が終わり、正式にファシリティドッグを受け入れるかどうかのアンケートが病院内で行われた。
「反対」は、なかった。
こうしてベイリーは正式に病院の職員として活動を始めた。初めは外科病棟だけに限られていた活動も徐々に広がり、やがて感染症に対して厳重な対策が取られる内科病棟や手術室(前室まで)、ICUにも入れるようになった。
入院中の子どもたちの“こころ”をサポートする支援
「子どもたちの長期入院には大人とは異なる支援が必要です」と森田さんは言う。近年、小児がんの5年生存率は飛躍的に向上し、がんの種類によるものの、現在では80%~90%の子どもたちが治療を受けて成長できるようになった。しかし、治療が優先され、子どもたちの“こころ”の問題にまで手が回らなかった時代があったと、森田さんは自分が看護師として働いていたときのことを思い出して話してくれた。
「子どもたちにとって、病気を治してからの人生の方がずっと長いのです。体と“こころ”が健やかに育つためには、たとえ病院の中にいたとしても、子どもらしく過ごすことが大切です。入院中は我慢しなければならないこともありますが、できるだけ嫌な思い出にならないように治療を受けてほしいと考えています」
「ファシリティドッグのハンドラーにならないか」との打診があったとき、森田さんは二つ返事で引き受けたという。看護師を辞めることに迷いはなかったのだろうか。
「まったく迷いませんでした。看護師として子どもたちに向き合う中で治療以外にも必要な支援があると、ずっと感じていたからです。看護師を辞めるとはいってもチームとして子どもたちの治療に加わります。採血や点滴の針を刺さないという違いはありますが、できることにそれほど違いがあるわけではありません。なにより、犬が病院にいたら子どもたちが喜ぶだろうなと思いました。子どもたちの喜ぶ様子を想像したらワクワクしました。それに子どもたちが笑うと、付き添っている親御さんも笑顔になります。お母さんたちも不安なのです。子どもたちは、大嫌いな検査や処置も、ファシリティドッグが応援してくれるからがんばれる。いつか治療を終えて退院するときに『自分は困難を乗り越えられた』と、自信を持って家に帰るお手伝いをしたいと思いました」
「病院に犬がいる」が普通になる未来へ

ベイリーが初めて日本にやってきてから16年。現在、6頭のファシリティドッグが5病院で活動中だ。2026年4月からは「ミコ」が兵庫県立こども病院で、「トミー」が東京都立小児総合医療センターの2チーム目として研修を開始している。大阪市立総合医療センターでもクラウドファンディングの準備が進む。2020年に生涯を終えたベイリーと森田さんが蒔いた種はいま、日本各地で花開こうとしている。
ファシリティドッグのサポートが与える良い影響に着目した日本中の「こども病院」が、次々に導入を目指すようになった。しかし、1頭のファシリティドッグを導入するためには多額の費用が必要になる。病院はいま、どこも財政難に苦しむ。それでも、子どもたちの命と笑顔を守るためにファシリティドッグを導入したいと考える病院は増えている。その思いに応えるためにも、ファシリティドッグとハンドラーの育成が急がれる。
「日本中にファシリティドッグがいる病院が増えればいいなと願っています」と話す森田さんは今春からハンドラー・リーダーとして、後継の候補犬やハンドラーの育成に軸足を移す。昨夏、仲間になったラブラドール・レトリバー(黒ラブ)の仔犬2頭のトレーニングも始まっている。

小児がんや重い病気と闘う子どもたちにファシリティドッグという支援を。病院に犬がいる光景が「特別なこと」でなくなる未来へ、ベイリーと森田さんの物語は続いていく。
導入を目指す「こども病院」に、直接寄付もできるが、その場合は病院に必ず連絡をしてほしい。また、新たなファシリティドッグとハンドラーを育成するための継続的な寄付も募っている。興味を持ったらぜひのぞいてみてほしい。(了)
「ファシリティドッグ・ドリームサポーター」
https://readyfor.jp/projects/SOK_FD
執筆/森 佳乃子

森田優子(もりたゆうこ)
認定NPO法人シャイン・オン・キッズ所属、ハンドラー・リーダー。小児科で5年間、看護師として働いたのち退職し、ファシリティドッグ・ハンドラーに。日本初のファシリティドッグ、ベイリーと共に2010年に静岡県立こども病院で活動開始。2012年に神奈川県立こども医療センターに転任。2017年にベイリーの後任犬アニーを迎え、ベイリー引退後も同病院にて活動を継続。2026年3月のアニー引退後は、後進の育成に専従する。
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