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まだ、自分の番じゃない……のかな? 【さとゆみの今日もコレカラ/第825回】

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仕事が重なる日というのが、ある。先週末の土日は、仕事のご依頼だけで3本、それに加えて父の七回忌も重なった。

今回に限らず、この仕事をしていたら、スケジュールさえ合えば絶対にやりたかったという仕事が結構ある。

「ホンマでっかTV!」さんは、もう1回さんまさんの仕切りを目の前で見れたら嬉しいなあと思うのだけれど、なかなかタイミングが合わない。

でも、こういうことはしょっちゅうなので、あまり悔しい、と思うことはない。まあ、そのうち、タイミングがあえば、あうでしょうと思うくらいだ。

なのだけど!
先週末お誘いいただいたトークイベントは……出たかった! 
週明けいろんな人のSNSで、このイベントの感想がぶち上がっていて、くううううとなっている。

悔しいのであまり見ないようにしていたけれど、登壇者の方々のポスターをこっそり薄目で見て、「うわああああ、あの方も! この方も! その方も登壇されていたんだ!! 控室で一緒になりたかった。お名刺交換したかった。何より話を聞きたかったーー!!」と地団駄ふんでおったですよ。
大好きな著者さんというか、研究者さん? もいらしていたので、お顔を! ご尊顔を! 拝見したかった! となりました。

でも。

きっとこういうときって、まだ私の番じゃないんだなあと思う。
だいたい、ご尊顔を! とか言っている時点で私、まだ多分準備ができていないのだろう。同じステージに立っていない。きっとまだ、なのだ。

なーんてことを考えていたら、その先生が登壇する講義でファシリテーター、できますか? というお問合せをいただいた。

えええええ、マジで? 
寝耳に水!(誤用)

まだ開催自体決まっていない話だったので、どうなるかわからないけれど、それが私の出番だったら、フルスイングでいっちゃうぞーー!

そのときがきっと、一番いいタイミングなのだと思う。

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10代後半の頃は、雑誌の表紙やギャラリーの展示に知り合いの絵を見つけて「どうして俺はここに呼ばれないんだろう?」と思うことはありましたね。

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残りの人生、荷物の重さ 【さとゆみの今日もコレカラ/第824回】

旭川→大阪→和歌山→東京の2泊3日。
普段仕事に使っているリュックひとつで移動していたら、行く先々で「え? 荷物それだけですか?」と聞かれる。

1週間くらいの旅行や出張なら、日本でも海外でも、機内持ち込みサイズで行ってしまう。
先日友達のライターさんから、「ファンデーションをサランラップにはさんで持ち歩く」というハックを授かったので、今回はさらに荷物が少ない。

京都と二拠点生活をするようになってから、人は本当に少ない持ち物で生活できるのだなと感じている。
京都の事務所には服を数着と下着を何セット、靴を1足しか置いていない。でも、その数着と、行くときに着ていく服と靴とで、こと足りる。

最近では東京の家に帰ってくると、ものの多さに逆にぐったりするようになった。
3畳のウォークインクローゼットにびっしりの服。バッグだけでも10個以上ある。

いるか?
いや、いらないんじゃないか。

モノも情報も、いろんなしがらみも、
だだだだだんしゃり、したいお気持ち。

「1万時間の法則」ってそういうことだったか 【さとゆみの今日もコレカラ/第823回】

毎日3時間書く。
1ヶ月で90時間書くことになる。
3ヶ月で180時間。
このペースだと、「1万時間」に到達するまでに9年ちょっとかかる計算になる。

そんなことを計算したのは、これを読んだから。Xで拡散されまくっているので、読んだ人もいると思う。世界で24人しかいないレゴビルダー・三井淳平さんの記事。

考えてからでは遅すぎる


この文章はいわゆる「1万時間の法則」(何かのプロフェッショナルになるには1万時間の修練が必要だ)についての三井さんの考察だ。

すんばらしいことが書かれているので、ぜひ本文を読んでもらえたらなのですが、この文章の要点を、三井さんご自身がずばりまとめているのは後半のこの部分。

20代でこの言葉を聞いたとき、ただ「技術を身につけるまでに1万時間かかる」という意味だととらえていました。しかし、今では「考えることなくできるようになるまでに1万時間かかる」という意味に感じます。

この言語化に震えた。
三井さんの世界レベルにはほど遠いけれど、過去に1万時間費やしたことが3つある。1万時間を超えてくるとたしかに「考えることを必要とせず、ただ体が(手が)動く」ようになる。

たとえば学生時代に真面目に取り組んだテニスでいうと、「このボールを打ちたい」と思うボールはまず打てるようになるので、あとは「どのボールを打つのが一番効果的かを5手先くらいまでシミュレーションしてベストを選択する」ほうに脳を使うことになる。
選択したら、ボールを打つまでは自動だ。目をつぶっていてもできる、は言い過ぎだけれど、それに近い感覚である。

文章でいうと「これを書きたい」「こんなふうに書きたい」と思ったら、書き終わるまで書くだけになる。
なので、書き始めるまでの時間(何を軸に書こうか、どう構成しようか)がだいたい8割くらいで、実際に指を動かしている時間は2割くらい。物理的にタイピングする時間はかかるし、行きつ戻りつの推敲もするけれど、指が止まることはほとんどない。いつも思考のほうが速くて、タイピングのほうが追いつかない。書きながら考えていることもあるけれど、それだって、タイピングよりは速い。

拙著『道を継ぐ』で書いた美容師の、故鈴木三枝子さんは「絵になっている髪型は何でも作れる」と話していらした。それが、アニメのキャラの髪型でも、なんでも。
これもやはり、「手の仕事」は1万時間ですでで終わっていて、あとは「何を作るのか」を考えるほうが重要になるんだと思った。

いま私は、4つ目の1万字に挑戦しているところなのだけれど、やっぱりこのペースでは死んでも終わらねえ。1日3時間じゃ全然間に合わない。ということを、三井さんの文章を読んで考えた。
ふんどしをしめなおしますよう。

「私ごときがこんなことをしていいのでしょうか?」に対するファイナルアンサー【さとゆみの今日もコレカラ/第823回】

「私ごときが、こんなことしていいのでしょうか」と言っている人は、本当は「私ごとき」と思っていないような気がする。
だって、本当に「私ごとき」と思っていたら、何してもいいはずでしょう。「私ごとき」に、世間は何も気にしないでしょう。

だけど、「私ごときが、こんなことしていいのでしょうか」と、誰かの顔色を窺っているということは、「私ごとき」に少なからず影響力があると思っている証拠だ。少なくとも自分のことを地面を這いつくばる、視界に入らない蟻だとは思っていない。

だから、「私ごときが、こんなことしていいのでしょうか」と聞かれたら、こう答えることにしている。
「うん、あなたごときが何をしても、どうせ世界は変わらないから、やりたいことをやっちゃえば?」

これ、意地悪極まれるような感じだな。
めっちゃ性格悪い人っぽい。

ーー閑話休題ーー

私は、人様から見ると、すっごく自由に見えるっぽい。
好き勝手にいろんなことをしているように見えるらしい(実際、してる)。
でもそれは、私が自分に自信があるからじゃなくて、心の底から「私ごときが何をしても、世界中誰ひとり気にしやしない」と思っているからだなあって思った。

過去に、「さとゆみ ”ごとき” が、よく、人に文章を教えるとかできるよね」と(面とむかって)言われたことがある。ガチで7回くらい、ある。多分、心の中で思っている人はその10倍以上いると思う。

だけど、そういうの、全然気にならない。
なぜなら、そう言っている人も、本気で「私ごとき」のことを気にしてるわけじゃないからだ。きっと明日には忘れる。てか、言った5分後には忘れている。私のことなんて、世界中誰も気にしていない。

だから、「さとゆみ ”ごとき” が、よく、人に文章を教えるとかできるるよね」と(面とむかって)言われても
「きゃいーん! そうなんですー! でも、私ごときが何しようと、どうせ何も変わらないですから、好きにしてますーーー笑 がんばってまーす!」
と、答えてる。

私の場合、
「私ごときが、こんなことしていいのでしょうか」
じゃなくて
「私ごときがやること、誰も気にしてないでしょうから好きにします」
のほうが、しっくりくる。

って話で、北海道から1400キロ先のゼミのメンバーとzoomで盛り上があった夜でした。楽しかった。

こっちはパウダースノーが積もっています。しんしん。

書くのが嫌になる理由、第一位から第三位まで【さとゆみの今日もコレカラ/第822回】

だーいぶ遅ればせながら、『天才による凡人のための短歌教室』を読んだ。

三十一文字が渾身の人は、それが三万字になっても徹頭徹尾一言一句面白い。
とくに、私が好きなのは「短歌を嫌いになる原因ランキング」一位から三位までを発表したページだ。

第一位:他の歌人
第二位:他の歌人
第三位:他の歌人

これ、最初、私は「他の歌人の歌」だと読み違えをした。
つまり、人の才能を見て、次に自分を顧みて、それで絶望して書けなく(詠めなく)なることを指すのだと思った。

そうじゃなかった。

第一位:他の歌人
第二位:他の歌人
第三位:他の歌人

は、つまり。人間関係ということ。

これは、本当にそうだなあと思う。

自分の文章に見切りをつけるのであれば、まだいい。
そうじゃなくて、人間関係で辞めていく人がいかに多いか。そして、自分がもう書かなくてもいいかもしれないと思うときもやはり、人間関係だ。

ということを知っているだけで、だいぶ回避できる落とし穴がたくさんあるなと思った夜です。

這い上がれ。


「!」や「!!!」を使わなくたって【さとゆみの今日もコレカラ/第820回】


日本語は、話し言葉と書き言葉にだいぶ距離がある言語だ。
だから、人の話や自分の話を書こうとするとまず、話し言葉を書き言葉に翻訳する必要がある。
そして、たとえばビジネス媒体などで書くときは、「書き言葉ってむずい」ではなく「書き言葉は難しい」と書く必要がある(媒体特性にもよるけれど)。

今日のライティングゼミで面白かったことは、「話し言葉を綺麗な日本語に整えると、熱量が伝わらなくなる気がする」という意見が出たことだ。

「書き言葉ってむずい!!!」
のほうが
「書き言葉は難しい」
よりも、熱量が伝わる気がするというのである。

私はこれは幻想だと思っている。
もちろん、話し言葉や「!!!」を使うことで、文章が盛り上がる側面がゼロではない。けれども、綺麗な日本語を淡々と積み上げた文章でも心が動く時は動くし、泣けるときは泣ける。というか、むしろ、そういう時の方が多い。
私の涙活?作家は浅田次郎さんだけれど、一文一文はまったくエモーショナルじゃないのに、それが重なることで涙腺が崩壊する。

つまり、熱量とか感情は、「!!!」で伝えるものではなくて、文章の構造、描写の仕方で伝わるものなんだろうなー、なんて話をしてました。

ゼミ、楽しい。

嘘でも本当でも面白いものがいい【さとゆみの今日もコレカラ/第818回】

先日京都文学フリマで作った『舌を抜かれる』の感想をいただいています。読んでくださったみなさま、ありがとうございますっ。

「どれが嘘か全くわからなかった」というご感想がいちばん多いのですが、ここ数日「嘘とか本当とかよりも、結局エッセイとして面白いものがいいよね」という感想を立て続けにいただき、これは本当にそうだなあと思った。

嘘をどう定義するかは別として、嘘か本当かは実は読者の人たちにとってはどっちでも良くて。
白でも黒でもネズミを取ってくるネコがいいネコなのだなあと、しみじみ。

今回は、佐藤智さん、田中裕子さんという信頼する書き手のお二人と一緒だったこともあり、私史上最も気を楽にして書いたのだけれど、商業文章じゃないぶん、自分の色が前面に出たものになったなあと思う。

もっと上手くなりたい。もっともっと上手くなりたい。強欲。
(『舌を抜かれる』はこちらでご購入できます

読書を「アウトプット」する【さとゆみの今日もコレカラ/第816回】

NHKカルチャーセンターの大阪梅田で、「本を読んで感想を書く」講座がスタートしました。

私は2016年くらいから3年間、毎月1冊の本を読む読書会に参加していたのだけれど、そこでの経験があったことで「本を読む」を、もっともっと楽しめるようになった。

さらに、今は、本のレビューを書く仕事もしているのと、ポッドキャストで話すこともしているので、それでさらに本読みが楽しくなった。

読書とはインプットなのだけれど、読書会でアウトプットしたり、文章にしてアウトプットしたりすると、何度も何度も味わえる。

いま、同じ本についてのレビューを何本も書くというオファーをいただき『弱さ考』について、何本も感想を書かせてもらっている。この本は、何度も読みたいと思っていたけれど、こんなふうに強制的にいろんな読み方をさせてもらえるなんて、ほんと、幸せ。

みんなもすっごく楽しかったみたい。
東京メンバーのみなさんも、楽しみにしていねー。

「下から目線」で斬る【さとゆみの今日もコレカラ/第813回】

最近、上から目線より、下から目線のほうが、人を斬れるなあと思うことがある。
いや、実際に「斬れ」ているかはわからないけれど、下からご意見申すほうが、共感を得やすい側面が加速している。

「笠に着る」という言葉はもともと、強い立場や伝手を利用して好き勝手にふるまうことを指すけれど、

そのうち

「庶民」の立場に笠を着て
「弱者」の立場を笠を着て

という言葉も生まれるかもしれない。

と、思う今日この頃。

「下から目線」について書きました。
エリートの「弱者アピール」について。
よろしければ、ぜひ。

「言いにくいんですけど、「生きづらくない」のは悪いことなんですか?」(別サイトに飛びます)


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