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「遺言だと思って書いている」のその後の話【さとゆみの今日もコレカラ/第270回】

コルクの佐渡島さんのnoteを読んでいたら、遺書を書くワークをした経験が書かれていた。佐渡島さんはそのワークで家族への簡単な感謝の言葉しか書けなかったという。そして、ワークを通じて「編集者の仕事は、日頃から遺書の断片のようなものを世の中にばらまいているのではないか」との考えに至る。

書き物が遺書であるという話を読んで、思い出したことがある。

息子との生活を書いたエッセイ『ママはキミと一緒にオトナになる』の中に「遺言だと思って書いている」という章がある。
私はシングルマザーだし、私が死んだ後に「お母さんはこういう人だったよ。あなたのことをこんなふうに話していたよ」と伝えてくれる同居人はいない。だから、遺言のようなつもりでこのエッセイを書いていると、本に記した。

ところが、web連載の書籍化が決まり息子に原稿を確認してもらったとき、彼がこんなことを言った。

「遺言のつもりで書いているなら、僕にだけ渡せばいいんじゃない?」

……おっしゃる通り。

「ママは僕のために書き残しているみたいに言うけれど、だったら僕にだけ渡せばいいと思う。でも、それを発表するということは、みんなに読んでほしいからだよね」

……はい、おっしゃる通り。

それを自覚できたならもうそれでいい、というふうで、それ以上息子は何も言ってこなかった。

息子からの指摘は1冊を通して5箇所くらいだったのだけど、そのうちのひとつがこれだった。

いまでもときどき思い出す。
書く理由を欺瞞しないように。

※この文章は毎朝7時に更新され24時間で消滅します。今日もコレカラよい一日を。

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【この記事をおすすめ】

「私がいるよってことだけ、知ってほしかったの。(中略)私がいるよっていうのは、あなたがいるよって伝えるのと同じことだと思うの」






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