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知的体力!と繊細さん【さとゆみの今日もコレカラ/第773回】

現在ご一緒している著者さんが、非常にかっこよくてしびれている。
3歳年上の社長さま。
インタビューやミーティングのアポがなかなかとれないくらい、スケジュールはいつも真っ黒。の、はずなのに、先日送ったばかりの構成案に補足資料と参考原稿をどっさりつけて戻してくださった。
マネジメントをしている広報の方も「え、これいつ書いたんですか?」とびっくりしていた。「ん、この間の週末に」と、社長はおっしゃる。

50代なのに体の線がしゅっとしている。運動をされているのだろう。顔もまったくたるんでない。
「体力が違うんですかねえ」と私がつぶやくと、「歳をとってくると体力というよりは、『知的体力』みたいなものが大事になってくるよねえ」とおっしゃる。「読もう、書こう、と思ったときに集中できる力、みたいなのが大事だよねえ」と。
そして「僕もダメなときは全然ダメなのだけれど」と、謙遜される。

知的体力!

いやまさにそれなであります。
気づけば、「ま、いっか」が脳内の口癖になっている。ほんと、知的体力がダダ落ちしている証拠だ。
で、量と質はある程度比例するから、知的体力が落ちると、知的な感性も鈍るんだろうなと思う。
それはやばい。やばいすぎる。この仕事をする上で致命的だ。

そういえば、金原ひとみさんの新作『YABUNONAKAーヤブノナカ』でも、知的に不感症になっていくさまを、「文学◯ンポ(自主規制伏字)」と表現していて、その言葉の鋭さに一刀両断されてマジで血を見た。ほんと連呼しないでほしいし痛いですし苦しいですし身に覚えありすぎますしと、本を読みながら泣いて詫びた(誰に?)ところでした。

実際、歳をとって今のところ一番怖いのは、文学◯ンポである。
感動が雑。感想が雑。いろいろ雑になっていく。
まさに不感症である。

体力と知的体力にも相関性がある気がする。
物理的な体力がなくなると、本も読めないし書けなくなる。相関して知的体力も落ちる。
ファットになると文章もファットになるなあと思うし、体がだれると文章もだれる。

そう思っていた。
……ところが!

先日、某「見える人」と、体型と敏感さについて話をしていたら、「いや、それ、わりと逆」と言われた。

「ふっくら体型は、おおらかな人が多い。痩せている人は神経質な人が多い。そんなふうに言われるけれど、実は、逆なんだよね」
と言うのだ。

いわく、「ふっくらしている人は、皮膚が薄いといろんなことに耐えられないくらい敏感だから贅肉をたくわえているんです」とのこと。

この理論でいくと、わがままぼでぃのわたしはだいぶ繊細さんということになる。

……全然信用できない。

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【バックナンバー】

嗚呼、幸せのお座敷仕事【さとゆみの今日もコレカラ/第772回】

昨日アップした「人づきあいのシーソーゲーム(バックナンバーは文末)」に、たくさんのメッセージをいただきました。

義務と権利って、考えるほどに面白い。

たとえば、私の周囲には「仕事が好きではない」人があまりいない。
というのも、私の周りにはライター、各種クリエイター、起業家、セミナー講師、美容師など、”お座敷仕事”の人が多いからだ。

ご指名がかかって初めて仕事ができるのがお座敷仕事。
選ばれないと仕事できないのだから、「ありがたや。今日も仕事をさせてもらっている」という感覚になりやすい。
プロのスポーツ選手なども、きっとそうだろう。選ばれない限り、文字通りバッターボックスに立てない人もいるのだ。

こういう職業の人たちにとって仕事は「義務」ではなくて、今日も仕事ができるという「権利」になりやすい。
そもそも仕事をする「権利」を得るためにお稽古もするし営業もする。その結果お座敷がかかるのだから、仕事とはご褒美みたいなものだ。

別件。

来月からさとゆみゼミの6期がスタートするのだけれど、うちのゼミの課題はきつい。
毎週毎週何らかの原稿を書いてもらうし、添削もだいぶ厳しいと思う。
だけど途中で辞める人は毎年ほとんどいない。

仕事だったらお金をもらってでもやりたくないと思うようなきつい課題を、お金を払ってなんとかやろうとする心理はいかほどか。
これもやっぱり、課題を出すという「権利」を買っているからだろうなあ。

お金をもらうときも、お金を払うときも、それをできる「権利」を得たと思うときがきっと、楽しいし幸せなんだろうな。

人づきあいのシーソーゲーム【さとゆみの今日もコレカラ/第771回】

先日東京女子大のメディア論の講座にお呼ばれして、ライターの仕事について話をさせてもらった。

私が、ライターは文章力も必要だけれど、企画を立てられる力と、コミュニケーション力も大事ですと話したからか、「コミュニケーション力」について質問をされた。

「フリーランスの仕事って、人づきあいが難しくありませんか。仕事を発注する側(編集者さんやクライアント)とどんな関係を築けばよいのですか」という質問だった。

これは『書く仕事がしたい』にも書いたけれど、受発注の関係性がある場合、どうしても受注している側は「仕事をいただいている」という姿勢になりやすい。
だから私は
・自分が受注側のときはやや生意気ぎみに
・自分が発注側のときはだいぶ低姿勢で
コミュニケーションするようにしている。
それくらいでやっと、シーソーがちょうど対等に釣り合うような気がするのだ。

後輩のライターさんからこんなことをよく聞く。

編集者さんに聞きたいことや、疑問に思ったことがあったとしても
「忙しい編集者さんに質問をして、手を煩わせちゃったりしないかな」
とか
「こんなことも知らないなんて、このライター大丈夫かなと思われないかな」
とか思って、質問することができません。

キツイことを言うようだけれど、そういう人は、奥ゆかしいのではなくて、仕事をナメていると思う。
いい原稿を書くことよりも、自分が嫌われないことが大事になってしまっているのだから、ライターとして仕事をサボっちゃっていると思う。

これは学生さんたちにも話したのだけれど、わからないことを聞くのは「権利」ではなく「義務」だと思うのはどうでしょう。
仕事相手に「やってもよいのか?(権利)」と悩むのではなく「やらなきゃいけないこと(義務)」なんだと考えてみるとか。
そして、これは、ライターの話だけではなく、仕事全般に言えると思う。

なーんてことを講義で話させてもらった。

で、話しながら思っていたのは、ああ、この原稿がアップされていたら、このリンクを読んでって大学生の皆さんに言えたのになあってこと。
昨日アップされた塚田智恵美さんの原稿。

編集者とだけうまくいかない人間と、恋人とだけうまくいかない人間。そのメカニズムはいかに

面白いので是非読んでくださいませ。

ちなみに、20代、30代の頃、私の周りには「仕事相手とはうまくいくのに、恋人とだけスーパーこじれる」シゴデキ女子がけっこう多かったのだけれど、いまごろみんなどうしてるだろう。

「土日にメールを送るのはパワハラです」など聞きまして(えっ)【さとゆみの今日もコレカラ/第770回】

今日は東京女子大学のメディア論の講義に登壇させていただいた。お昼に授業が終わってケータイの電源を入れたら、ずいぶん多くの通知が届いていた。
何事だろうとSNSを開くと
「あれを書くのは勇気がいったでしょう」
というDMが何本もきていた。

今日アップされた、朝日新聞の&【and】の書評コラム

被害者になるのも怖いが加害者になるのも怖い。私は誰かを病ませていないか。そして私たちはなぜ病むのか。『弱さ考』(外部サイトに飛びます)
のことだった。 

実は、このコラム、2バージョン納品して編集者さんに判断を委ねた。
そして、編集者さんが選んでくださったのが、この「私自身は、いろんな人が言うところの『生きづらさ』がわからない。そして、わからないことが怖い」について書いたほうだった。

コラムにも書いたけれど、

私はいま、
いじめられることよりも、いじめてしまうことのほうが怖い。
パワハラをされることよりも、してしまうことが怖い。
人間関係に病むことよりも、病ませてしまうことが怖い。
被害者になるより、加害者になるほうがずっと怖い。

だから、この本(『強いビジネスパーソンを目指して鬱になった僕の 弱さ考』)も「自分の保身のために」読んだ。
身勝手といえば、身勝手な動機だと思う。

おりしも先日、「土日にメールを送るのはパワハラです」ってSNS投稿があったよと友人が教えてくれて、それじゃ私毎週パワハラだよう、、、となったところだった。
でも、そういう「アレをやったらダメ」「コレは地雷」という考え方ではきっと、私たちは会話せずにどんどん離れていくばかりなんだとも思う。そんなふうに分断したくないし、されたくない。

だから、知りたい。
自分には解像度高く想像できない、繊細な心の動きを、知りたい。

最後の一行を
「それは、地雷を避けるためじゃない。自分の周りの大切な人たちを守るために」
ではなく
「それは、地雷を避けるためじゃない。自分の周りの大切な人たちを知るために
としたのは、そういう気持ちからで。

寄り添いたいというのは、おこがましいと思ったから。
力になりたいも、出過ぎていると思う。
まして、守るは言えない。

だから、まず、知りたい。
知るだけで変えられる「自分の行動」があるように思ったから。
身勝手な動機からスタートしたけれど、本当に読んで良かったと思った本だったよ。

よかったら、さとゆみの書評コラム、読んでください。

私のだいぶやらしいところ【さとゆみの今日もコレカラ/第769回】

人の悪口って聞いていてだいたい嫌なものだけれど、そうじゃないときもある。

めっちゃ評価の高い人を、知り合いがけなしていたりすると、そして私も実はその人が苦手だったりすると、ちょっと嬉しくなったりする。
「どうしてどうして? どこが嫌いなの?」と、嬉々として聞いたりする。
もっと言って、もっと聞きたい! ってなる。
そしてそれに便乗して、「私もね、あの人の◯◯なところがどうかと思っていたんだー。いや、素晴らしい人だとは思うんだけどね」などと、もっともらしく言ったりする。
それに頷いてもらえたりすると、絶対顔には出さないけれど、気持ちがいい。

だけど、家に帰ってはたと気づいた。

よくよく考えてみたら、わたし、別にその人の「◯◯なところが嫌」なわけじゃない気がする。
◯◯なことをやっている人は、多分、たくさんいる。

そうじゃなくて、わたしがその人を苦手なのは、過去にその人に相手にされなかったことがあったからだ。それが悔しくて、悲しくて、でも「相手にされなかったから嫌い」と言うのは癪だから、「◯◯なところが嫌」と言ってみたりしたんだ!!!

うわーー、めっちゃいやらしい。

そして、もうひとつ、怖いことに気づいてしまった!!!

わたしが「あの人の◯◯な部分、あまり好きじゃない(あまり誉められたもんじゃない、あまりイケてない)」と過去に言ったことがある人(4人くらい思い当たる)
全員、わたしがあまり相手にしてもらえない人だった!!!!

うわーー、うわーー、うわーー。ただのひがみじゃないか!!

そしてさらに気づいたぞ!
過去にそうやって「あの人はどうかと思う」と感じていた人が(相手にされていなかった)、徐々にわたしを視界に入れてくれるようになって、対等に話ができるようになったら、コロッと「あの人、いい人だよね」なんて言ったりしてる!!! してるぞーーーー。

恥ずかしくって土に還りたくなった。土に還りたくなりながらSNSをパトロールしていたら、私がもっともらしく批判した人の悪口を真っ向からド直球で書いている作家さんを見つけた。
「あの人、私のことをまったく相手にしなかった。ムカつく!」
とあって、清々しすぎた。

清々しいその人も、いやらしいわたしも、どっちもすっごく人間っぽい。
腹が立つよね、人間だもの。
ひがんだりするよね、人間だもの。

相談にのってるふりして【さとゆみの今日もコレカラ/第768回】

相談にのってるふりして本当は納得行かせるのが快感で

脇川飛鳥さんの短歌集、ソーリーソーリーより。

あるわ、あるある。そういうのある。15回くらい噛み締められる短歌だ。読めば読むほど、じわじわくる。

最近気づいたのだけれど。相談に乗ってもらうとか、誰かの手を借りるとか、ちょっと迷惑をかけてしまうとか。
こういうの、意外と「孝行」じゃないかと思うようになってきた。
親孝行ならぬ、友達孝行、先輩孝行、後輩孝行。

え、人に迷惑をかけるのが相手に対する孝行だって? と思うかもしれない。

でも、あの人の役に立てたとか、ピンチを救ってあげられたとか、なんなら説教してやったぜとか、そこまでいかなくてもアドバイスしたったぜ、とか。
そういう経験って、頼られたほうに、手を貸してあげたほうに、充足感や優越感を手渡せる。

なんでもかんでも、自分でやってしまってはいけないのだ。
「お前はもっと人に頼る余地を残した方がいい」と、昔、誰かにも言われたことがあったなあ。

私たちは、人に頼るのは申し訳ないと思うのに、人から頼られると嬉しいと思う。
だったらなぜ、自分が嬉しいと思うことを相手は迷惑だと感じるに違いないと決めつけるのだろう。
それは相手をみくびっていないだろうか。相手は自分よりも狭量であると言っているようなもんだよなあ。

和田裕美さんとの2日間のコラボセミナーはめちゃくちゃ面白くてみんな大興奮だった。私もノートがメモだらけになった。本編めっちゃくちゃ勉強になった。
の、だけれど。
そのセミナーの「楽屋裏」で、私が一番学んだのはそこ。

自分が手を出すべきところではないところで決して手を出さない和田裕美さんは、先回って次々と動いてしまう私よりも断然、みんなを幸せにしてたよ。頼られているみんな、嬉しそうだったよ。

女体と卒論、七転び八起き【さとゆみの今日もコレカラ/第767回】


友人から「女体」というテーマのエッセイのお題をいただき、日々なんだか女体について考えている。

✳︎

和田裕美さんとのパワフルここに極まれりみたいなコラボセミナーの帰り道、池尻のワイン食堂に寄った。

蝋燭の灯りで澁澤龍彦の『血と薔薇』第3号を読む。めったに読まない澁澤龍彦に手がのびたあたり、女体のヒントがほしかったみいたいだ。

「エロティシズムと残酷の綜合研究誌」と銘打たれたこの雑誌、ソムリエの佐野さんによると「3号で終わっちゃったんですよね」とのこと。

目次をタイピングするだけで、垢BANされそうなxxxワードが並ぶ。

野坂昭如さんが『愛しのxxxよ、さようなら』(xxxは自主伏せ字です)というエッセイを寄稿していて、うわちょっと待て、この人『火垂るの墓』の人だよね、とクラクラする。

宦官の写真の話に始まり、祖母にロックオンされた話に続き、なぜ自分が性的不能者の話を書き続けるかの話につながる。

いやほんとこの方。『おもちゃのチャチャチャ』を書いた人で、デビュー作は『エロ事師たち』で、その翌年には『火垂るの墓』。あとはあれよね。モデルやって政治家やって、角栄に立ち向かった人なのよね。

こういう話を聞いていると、人の人生って、ほんとカラフルし放題だし、人は何歳からでも何者にでもなりうると思っちゃうよねえ。

✳︎

わたしは国文科出身なのだけれど、卒論にはひとつ縛りがあって「生存している作家についての卒論は不可」であった。

生きている作家は、1作増えるごとに、過去の作品の意味づけが変わる。作品はソリッドでそれ以上変化しないにもかかわらず、最新作が出たら評価が変わるという(だから卒論には適さない)ことが、なんだか人生の縮図のようだった。

晩年に最高傑作がある作家もいたし、その逆もしかり。

なんだか、いつまでもジタバタしていいよと言われているようで、いい話だなあと思っていた。

野坂さんのように、晩年、とんねるずを平手打ちしたり、ダウンタウンと殴り合ったりしてもいいわけで。そして若い頃お金を使い込んだ永六輔さんに、最後はずっと可愛がられたりしてもいいわけであって。

人生七転び八起き。どこが起承転結の結かだなんて、死ぬまでわからんよねえと思いながら、帰ります。

女体、何、書こうかなあ。

もらってうれしい小さなギフト【さとゆみの今日もコレカラ/第767回】

先日、お世話になった媒体の編集者さんにお礼をしようと、ライター3人でお疲れ様会を企画した。

「何かお礼の品をお渡しする?」と相談したとき、参加者の一人が「ワインがお好きな方なので、お店に1本持ち込むのはどうでしょう」と提案してくれた。

たしかに、わたしが逆の立場だったらすごく嬉しい。大げさになりすぎないし、その場でみんなで飲めるのもいい。こういうことをさらっと考えつくのが素敵だなあと思う。

そして迎えた当日、編集者さんは逆に私たちに手土産を用意してくださっていた。それがこの、ハンカチ。なんと、卵かけごはん刺繍!! 1日3個食べたいくらい卵LOVEなわたしなので、テンションあがるあがる! よく見ると、TKGの文字がある!! お箸もお箸置きもある!! 凝ってるーーー!

わたしは卵かけご飯だったけれど、一人ひとり違う柄のものを用意してくださっていて、小さなお子さんがいるライターさんのハンカチは恐竜の刺繍入りだった。

そういえば、過去にもお香をいただいたり、スリランカのお茶をいただいたり、いつも気遣っていただいている。こういうさりげないのにありきたりじゃない手土産を用意できるような大人になりたい!

手土産とはちょっと違うけれど、プレゼントもセンスが出るよねえ。

前に、出産した友人に、仲間内でプレゼントを贈ろうとなったときに「赤ちゃんへのプレゼントはいろいろもらっているだろうから、忙しくなるママのためにスープストックの冷凍詰め合わせはどう?」と提案してくれた友達がいた。これも逆の立場だったらすっごく嬉しい。仲のいい友人だからこそのプレゼントって感じがする。

誕生日に名前入りのアヴェダのクッションブラシをプレゼントしてくれた友人もいた。わたし、アヴェダのクッションブラシのヘビーユーザーでいくつも使い倒しているのだけれど、名前を入れられるとは思わなかった。これも特別感あったなあ。

同じく誕生日が近い友人と紀伊国屋書店さんで待ち合わせして、お互いに贈りたい、でも読んだことがない本を見た目だけ買うというプレイをしたこともある。これも楽しかった。

前にも書いたことがあるけれど、「たくさん本が読めますように」と、キンドル用のページクリッカーをもらったときも嬉しかったな。気にかけてもらっているんだなあと思ってじーんとした。

みなさんにも、もらってうれしかった手土産ありますか? そして、さりげなくて喜ばれる「勝負手土産」があったら教えて欲しい!

「すみません」を卒業した日【さとゆみの今日もコレカラ/第766回】

以前、デザイナーのNさんと、ライター仲間のTちゃんと、3年かかって完成した書籍の打ち上げで、プチ旅行をしたことがある。
Nさんと私は同世代。Tちゃんは一回り以上若い。私たちは、礼儀正しくめちゃくちゃ感じのいい、そして原稿がすっごくうまいTちゃんのことを、大好きだった。
このときも、一緒に温泉に入ったり、飲んだりして、とっても楽しい初日を過ごした。

ところが、次の日の朝のことである。
昨日、夜中まで語り合っていたらしい二人が、なにやらお金のやりとりをしている。
「あ、また言った! 罰金100円!」と、いうNさんの声が聞こえる。

どうしたの? と聞いたら、
「あのね、Tちゃん、なんでもかんでも『すみません』って言うんだよー」
とNさんは言う。

ああ、たしかにそれはそうかも。

たとえばお箸をとってあげたら「すみません」。
タオル、ここに置いとくねーと言ったら「すみません」。
いい原稿だったよーと伝えたら「すみません、ありがとうございます」。

Nさんは、
「それ、全部『ありがとう』でいいじゃんねー。きっとTちゃん『すみません』が口グセになっちゃっているんだよー」
と言う。うん、たしかに。

たとえばお箸をとってあげたら「ありがとうございます」。
タオル、置いとくねーと言ったら「ありがとうございます」。
いい原稿だったよーと伝えたら「わーい、ありがとうございます」。
でいいじゃんねー、と。

たしかNさんの言うとおりだ。Tちゃん、何も悪くないのだから「すみません」と言う必要はない。
それに、改めてよく考えてみたら「すみません」と何度も言われるほうも、そんなに気持ちよくないかも。だって「すみません」って言われたら「いえいえ」って言わなきゃならないし、何度も「すみません」って言われ続けたら、なんか、こちらがいじめているみたいだよね。

だから、その口グセを旅行中に治そうぜと、昨夜二人で相談して「すみませんって言ったら罰金100円ゲーム」が始まったらしい。

これが、かなり面白かった。
実際に意識して聞いていると、Tちゃんは、一時間に何度も「すみません」と言っている。本人も、スーパーナチュラルに「すみません」と言っては、「はっ!」となって、Nさんに「はい、100円!」と言われている。

でも、500円めの罰金くらいから、「すみ……じゃなくて、ありがとうございます!」とか「す……じゃなくて、嬉しいです!」とTちゃんが言うようになって、2泊3日の旅行の最後のほうはもう、「す」すら、言わなくなっていた。

別れ際、貯まった500円の罰金で、みんなで缶コーヒーを買って飲んだ。
Tちゃんが「ものすっごくいいことを教えてくださって、ありがとうございました!」とにっこにこで帰っていった。

何ヶ月か後、Tちゃんは「すみませんて言わないの、まだ続いています!」と教えてくれた。
それまではどことなくおどおどとした雰囲気だったのに、今は、しっかり落ち着いているように見える。心なしかオーラまでキラキラしている。もともとめちゃくちゃ仕事はできる人なのだ。

Tちゃんはその後、ある媒体でトライアルで書かせてもらった原稿を絶賛され、レギュラーライターに昇格したという。その数ヶ月後、さらに彼女はその媒体の編集者に抜擢され、私に仕事を依頼してくれる立場になった。

相変わらず感じがいいし、優しいし、丁寧なTちゃん。
もともと超素敵だったけれど、もっと素敵になったTちゃん。

最初の一歩は「すみません」を「ありがとう」に変えたことだった……のかもしれないなって思ったよ。


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