
ChatGPT と教授の死【さとゆみの今日もコレカラ/001】
その日、友人の車に乗ったら坂本龍一さんの曲がかかっていた。運転席を覗き込むと、「うん。教授の」とその人は言い、「追悼」と付け加える。ほんの数日前、教授は闘病の末亡くなっていた。彼の死を惜しむ文章がここかしこでアップされている。誰もが思い出の曲を記し、その曲を聴いていた時代の自分について書いていた。
彼がいなくなった 2023 年4月は、「ChatGPT が普及したらライターの仕事は無くなるか?」と、うるさいほど聞かれた春だった。
教授を偲ぶ文章を読みながら、ふと「ChatGPT なら死なないのにな」と思った。死なないし病気にならない。そして、追悼もされない。
人は、思った以上に、作品と作り手の人生を照らし合わせているものだ。20代の頃の作品か。どおりで初々しいと思ったとか。作風が変わったのは大病をしたせいかな、とか。ただ受け取るだけでも楽しめる作品に「文脈」を見出すと、味わいは変化する。
音楽であれ、絵画であれ、文章であれ、それを生み出した時分の作者に想いを馳せるのは、自分との距離を測りたいからだろうか。自分と重ねて身近に感じる。あるいは、手が届かない存在だと考える。その近さ/遠さを感じた瞬間、作品は私に干渉し身体の一部になる。
文脈を見出すのも、作者との距離を測るのも、作り手に「人生」があるからだ。ChatGPT には、それがない。ChatGPT は、生まれないし、死ねない。学生時代も、晩年もない。今日、フリーランス協会のイベントで、「ChatGPT には書けない文章」について話をする。”私たちには人生がある”ということが、おそらく鍵になるだろう。
15 時半から、渋谷ソラスタでお待ちしています。
