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そこまでしてなぜ、書こうとするのか。『こんな夜更けにバナナかよ』 原作者・渡辺一史さん

はじめに

2018年12月28日に公開された大泉洋氏主演の映画、「こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話」には原作があります。15年前に大宅壮一賞と講談社ノンフィクション賞をW受賞した、渡辺一史さんの『こんな夜更けにバナナかよ』。

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本作は、筋ジストロフィーの鹿野靖明さんを24時間体制で支える大学生や主婦などのボランティアを描いた、渡辺さんのデビュー作。
2年4ヶ月に及ぶ取材・執筆の過程では、渡辺さん自身もボランティアの一人として巻き込まれながら、密度の高い交流を重ね、それまで美談や紋切り型の表現で描かれることが多かった、介助の現場のリアルを描いて話題となりました。

健常者と障害者、支えるものと支えられるものの立場が、入れ替わり立ち替わりする本作は、介助・介護に携わる人たちにとって必読の書と言われています。また、多くの出版関係者が、現代ノンフィクションの傑作として挙げる一冊でもあります。

映画の公開に合わせ、この原作について話を伺いたい。また、渡辺さんの新著『なぜ人と人は支え合うのか』についても語っていただきたい …… というのが、このインタビューの「最初の」趣旨でした。

「最初の」と書いたのには理由があります。

話を伺ううちに、渡辺さんご自身の「書くことに対する葛藤」や、「書いて生きていくと決めた時に払う代償」についての話を、もっと深く聞きたいと思い始めたためです。

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というのも、渡辺さんには、これまで3冊しか著作がありません。デビュー作の『こんな夜更けにバナナかよ』の上梓からは15年。その本の取材・執筆に要した約3年を加えると、平均して6年に1冊のペースです。

渡辺さんの著作の中には、「いつまでたっても書き上げることができない」といったご自身の悩みや、「まったくうだつのあがらないライターである私は」とか「完全に食えない状態になってしまった」など切実な生活苦を吐露する場面がたびたび出てきます。
自分が心から納得できる一冊を書くためには、どれほど「書く以外」のことを犠牲にしているのだろうと考えてしまいます。

この取材の撮影は、普段北海道に住む渡辺さんが、映画と新著『なぜ人と人は支え合うのか』のプロモーションを兼ねて訪れていた東京で行われました。待ち合わせの駅の改札に現れた渡辺さんは、重そうなキャリーバッグを引いていました。
「今日北海道にお帰りですか?」と聞くと、まだ数日滞在する予定だと言います。「ホテルは?」とたずねると、最初の日はテレビ局が用意してくれたホテルに宿泊したけど、それ以外は都内の漫画喫茶を転々として過ごしていると楽しそうに話します。
それを聞いた時、少し背筋がぞくっとしました。「書くこと以外には、何もこだわっていない」といった雰囲気に、なにか、狂気めいたものを感じたからかもしれません。

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私ごとで恐縮ですが、このインタビューの聞き手である私(佐藤友美)は、普段、書籍ライターをしています。
書籍ライターとは、ビジネス書や実用書の著者に10〜20時間ほどのインタビューをして聞き書きする仕事で、私は、年間10冊前後の書籍を担当しています。現在では、執筆、構成、ライティングなどの肩書きで書籍にもクレジットが載る仕事ですが、ひと昔前までは“ゴーストライター”と言われ、存在自体を隠されてきた職業でもあります。

1ヶ月に約1冊のペースで書籍を書く私にとって、渡辺さんのようにひとつのテーマに長く向き合い書き上げる執筆姿勢は、想像を絶するものがあります。

渡辺さんは、一日に1文字も書けない日もざらにあると言います。
「1文字も?」
驚いた私が尋ねると、渡辺さんは、「ぜんぜん珍しいことじゃないですよ。メモ書き程度の断片は書ける日もあるけど、まるで使い物にならないことも多いから」と笑います。

渡辺さんにはまったくそのつもりはなかったと思いますが、その言葉は、ちくりと私の胸を刺しました。量産できるような文章は、所詮、それだけの解像度の(つまり、メモみたいな)文章なんだよ。そう言われているような気がしたからです。
もちろん、渡辺さんはそんなことをひと言も言っていないし、そう感じたのは、私の中に何かしらの負い目があるからだと思います。

どれくらいの時間と、どれくらいの”身のすり減らし方”で、取材対象にコミットメントすれば、いい文章が書けるのだろう。最近、そんなことを考えていました。
だから、自身もボランティアの一員になるほど深く関わって書かれた『こんな夜更けにバナナかよ』を読んで、すぐに「この人に会って話を聞いてみたい」と思ったのだと、この時、初めて気づきました。

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「書く時の葛藤」や、「書いて生きていくと決めた時に払う代償」について質問を重ねる私に、渡辺さんは「映画や新著の宣伝のためのインタビューではなく、自分も書いてみたいとか、書くことを仕事にしたいと思っている人の心に届くようなインタビューになるといいですね」と言ってくれました。

私は、その申し出をありがたく受け、書いて生きていきたいライターの一人として、渡辺さんに赤裸々な質問をぶつけました。

渡辺さんは、そこまでして、なぜ書くのか。
私たちは、そこまでして、書こうと思えるか。

これは、書くことを生業(なりわい)にする人の前に立ちはだかる壁に、人生を賭けて挑む「狂気」の作家(渡辺さんはご自身の肩書きをノンフィクションライターとしていますが)と、その姿に圧倒的な憧れとある種の悲哀を感じながら書く「正気」のライターの、対話です。

小説もノンフィクションも書けなかった平凡な自分

__昔から書くことに興味があったんですか?

渡辺一史さん(以下、渡辺) もともと文学少年ではあったんですけど、例えば、友だちと話していても、「もっと、ああ言い返せばよかったのに」とか、自分の思いがうまく言葉にならないとか、つねにモヤモヤ感を抱えている子どもでしたね。
だから、必然的に本を読むようになるんだけど、それによって救われることもある一方で、やっぱり他人が書いた文章と自分の思いのズレにも気づくわけ。結局、思ったのは、「自分が本当に読みたい本は、自分で書くしかないんだなあ」と……。

かといって、自分で小説を書いてみても、一つも完成した試しがなくて。やっぱり才能ないんだなーと思っていたのが中学・高校時代でした。

__どうして書けなかったんでしょう?

渡辺 その時に思ったのは、きっと自分が平凡すぎるからだろうと。ごく普通のサラリーマン家庭に生まれ、母親は専業主婦だった。何不自由なく育った自分には、人に伝えるべき物語もないし、書くべきテーマもないからだろうと思っていましたね。

そんな時に出会ったのがノンフィクションの世界でした。僕の学生時代は、ノンフィクションの新しい書き手がどんどん世の中に出てきた時代だったんです。

例えば、『地の漂流者たち』という沢木耕太郎さんが22歳から23歳までの時期に書いたものを集めた本があるんだけど、「防人のブルース」という作品では、自分と同世代の防衛大学校の学生たちに、「どうして自衛官になろうと思ったのか?」と直撃取材していくんです。
公式に取材を申し込むのではなく、通学途中の学生たちに突然声をかけて、徐々に親しくなっていく過程でいろんなエピソードを積み重ねていく。

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渡辺 書き手が取材対象にぶつかっていくときの緊張感や、生身の感覚がむき出しになっていて、そのプロセス自体を作品化していくスタイルがとても鮮烈だった。

それまで、ノンフィクションといえば、いわゆる「権力の監視」だとか、「弱者救済」「社会正義の実現」といったジャーナリズム的な使命感に基づく作品が一般的だったんだけど、沢木さんのノンフィクションは、全然そうではなくて、あくまで「個」としての自分に基盤を置いたスタイルでした。

それを読んだ僕は、「この方法だったら、自分の中に物語を持っているわけではない自分にも何かが書けるかもしれない」と思ったんですよね。取材対象とぶつかり合い、リアクションをすることで、初めて自分の物語が生まれてくるかもしれないと。

__経歴によると、北海道大学に進学して、キャンパス雑誌を編集するようになったとあります。

渡辺 僕がライターになった直接的なきっかけは、大学時代にキャンパス雑誌を編集していたことです。
どんな雑誌だったかというと、大学の講義を批評して、この先生の講義は単位が取りやすいかどうかを、「鬼」とか「仏」といったランク分けして評価する。「鬼仏(きぶつ)表」と呼んでいたのですが、その企画をメインにした雑誌でした。

もともと鬼仏表というのは、昔から先輩後輩のつながりの強い部活などで自然発生的につくられて、それが学生の間に出回ったりしてたんだけど、「これを雑誌にして売り出せば、売れるんじゃないか」と思ったのがそもそもの発端です。
次第に、伝聞に基づく不確かな情報ではなく、自分で実際に確かめてどう思うかを書きたいと思うようになって、実際に先生にインタビューしたり、自分がとっていない授業に潜ったり、先生の論文や著作を読んで批評したりもして。

__実際に売れたんですか?

渡辺 大学生協の書店で販売してもらうのですが、毎年春になるとレジの前に雑誌を買う学生で行列ができるくらい。2000部が完売する感じだったから、当時の新入生の8割くらいが買う雑誌でした。それで、新聞やテレビが取材に来たり、その流れで、広告代理店の人からライターをやってみないかと声をかけてもらうようになって、この道に入ったんです。

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__どうして大学を辞めちゃったんでしょう。

渡辺 キャンパス雑誌の編集にのめり込んで、単位を取れてなかったのもあるけど、レールに乗っている自分が嫌になったんだと思う。このまま卒業して就職したら、永遠にレールの上を走り続ける人間になるんじゃないか。どこかで意を決してレールを踏み外さないと、この先、自分は冒険しそうなタイプには思えなかったというのもあるよね。
で、大学を中退して、フリーライターとしてパンフレットなどの広告制作物をつくる仕事をしながら、自分の書きたいノンフィクションを書いてみようと思ったのね。
ところが、まったく書けなかった。これもまた完結できなかった。

__当時はどんなことを追いかけていたんですか?

渡辺 自分と同じように、大学を中退したり、休学や留年したりした人を30人くらい取材して、「大学っていったい何だろう」という、実際に今自分が悩んでいるテーマを突き詰めてみようと思ったんですよ。で、タイトルは『レールの上の大学』にしようと(笑)。
でも、やってみたら、取材したからといって、それだけで何かが書けるわけではない。どんなにいい取材ができても、「書く」というのはまったく別の作業なんだ、というごく当たり前の事実を知っただけに終わりました。

__ライターとしての仕事はできるのに、ノンフィクションは書けなかった?

渡辺 そうですね。僕の中では、その2つは、やっぱり全然違うんだろうね。

ライター業として何かを書く仕事には、たいてい“落としどころ”というのがあるでしょ。クライアント(発注者)がいて、締め切りや文字数の制限もあるし、その範囲内で求められるものを「このくらい」でまとめれば、まあ、クライアントも喜ぶし、「商品」になるぞというラインがある。

そういう作業は、別に楽に書けるというわけではないけど、一定の時間をかければできるわけ。だけど、完全に“落としどころ”を取っ払って、純粋に自分の「作品」としてノンフィクションを書こうとすると、1行も書けない。いや、何行かは書けるけど、これが自分の「作品」なんだと胸を張れるようなものはぜんぜん書けなかった。

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__ライターとしてプロになるだけでは満足できなかったんですか?

渡辺 それが案外難しいところですよね。「作品」ではなく、「商品」を書くライター業にもやりがいはあるわけだから。
僕が当時やっていた仕事でいえば、北海道内の市町村の観光ガイドブックや郷土出版物をつくる仕事では、いろんなまちを取材して、いろんな人にインタビューして記事を書く。それなりに楽しいし、やりがいもあるし、それが自分のやりたいことだと誤解することもできたんだろうけど。

__誤解、ですか?

渡辺 例えば佐藤さんも、“ゴーストライター”として、いろんな人の本をまとめたり、今、僕にインタビューしたりすることで、「自分がやりたいこと」ができている感覚になることもあるよね。でも、それが最終的にあなたの目指すところかというと、そうでもない部分もあるでしょう?

__……そうかもしれないです。

渡辺 僕自身、「いつか何かを本気で書きたい」と思いながら、そう思っているだけで、自分が本当に書きたいテーマさえ見つけられなかった。そして、気づけば30歳を過ぎて、いいかげん、自分の能力にも疑問を抱き始めていた。そんな時期に声をかけられたのが、『こんな夜更けにバナナかよ』という本を書くきっかけになる仕事でした。

最初、声をかけてくれた編集者が考えていたのは、鹿野さんとボランティアたちがつづった『介助ノート』という交換日記のようなものが何十冊もあるんだけど、それを抜粋して本にするという企画でした。で、僕に発注されたのは、 “ゴーストライター”として鹿野さんの短いバイオグラフィをまとめつつ、『介助ノート』のおもしろいやりとりをピックアップして並べて、本を編集していくという仕事だったんです。
でも、それまで障害や福祉の分野の仕事はしたことがなかったから、「障害者もの」の本といえば、どうせ「美談」とか「感動ドラマ」の線でまとめるんだろうと。なんか気が重い作業だな、と思っていたんです。

ところが、介助ノートを読み始めると、思っていたイメージと全然違ったんですよ。障害者というと、やっぱり聖人君子というか、「困難に負けず、けなげに頑張って生きている人」というようなイメージがあったんだけど、鹿野さんはどうやらそういう人ではない。
実際会ってみたら、とにかくボランティアに「あれしろ、これしろ」と要求がハンパないし、「豚肉嫌―い、メロン食べたーい」とか欲望全開の人なわけ。「どこが聖人君子?」って思ってしまうような人でね(笑)。

一方のボランティアの側も、「善意に満ちあふれた献身的な若者たち」というイメージとはぜんぜん違って、何度いわれても介助がうまくできなくて、鹿野さんから「もう来なくていい」と怒られる人もいる。自分が想像していたイメージがガラガラと崩れて、目の前にあるこの圧倒的な現実はいったい何なんだろうと。
だから、『介助ノート』をただ抜粋してスクラップした本ではなく、一人の書き手の視点を通して、本格的なノンフィクションとして書かないと、この世界を描くことはできない。そういって編集者を説得したんです。そこから徐々に深みにハマることになったんですが。

たとえ親しくなっても、書くべきことは書く。それが生命線

__無署名の原稿ではなく、自分の「作品」として書くことに不安はありましたか?

渡辺 そもそも量的にも、自分が本になるくらいの原稿を書けるのかという初歩的な不安があったよね。だって、それまで原稿用紙50枚以上(2万字)以上の文章は書いたことさえなかったし、自分の「作品」を完結できた試しがなかったんだから。
でも、圧倒的な現実を見てしまった以上、これを書かないわけにはいかないという気持ちに引きずられていきますよね。
それと、後になって思ったのは、それまで書くべきテーマを見つけられなかった自分にとって、「これこそがテーマだ」と思えるものに初めて巡り会ったということでしょうね。

__渡辺さんにとって「障害」という問題が書くべきテーマだったということですか?

渡辺 いや、障害者について考えることは、必然的に健常者について考えることだし、自分自身や今の社会について考えることにもつながるから。

例えば、当時の僕は、「人に迷惑をかけたくないし、かけられたくもない」と漠然と考えて生きているような人間だったんだけど、鹿野さんは「人に迷惑をかけたくない」と言っていたら、1日たりとも生きていけない人でしょう。

いってみれば、「他人と関わること」を宿命づけられた人でもあるわけ。そう考えると、鹿野さんを通して、「自分と他者」の関係とはいったい何だろうかとか、鹿野さんのワガママは、本当にワガママと言えるんだろうかとか、いろいろ深い問題につながっていく。

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渡辺 ボランティアの人たちもそうで、鹿野さんを支える一方で、鹿野さんに支えられてもいる。鹿野さんは自らの体を使って、介助の仕方や、人工呼吸器の痰の吸引の仕方などを教えるんだけど、教わったボランティアが、「今日はありがとうございました」と言って、鹿野さんに頭を下げて帰っていくのを見て、頭がねじれるような思いをするとかね。

取材していると、「障害者とボランティア」「感謝すると感謝される」「支える側と支えられる側」……。いろんな関係性が時に逆転するんです。そうした世界は、当時はまだはっきりとは言葉になっていない世界なんじゃないかと思ったんです。

__執筆はどんなふうに進められたのですか? 鹿野さんは、生前に原稿をチェックされたんでしょうか。

渡辺 取材を始めて、1年半くらい経った時かな。プロローグ、1、3、4、5章が先に書けていて、その部分は鹿野さんに見せているんですよ。

__そうか、見せていらっしゃるんですね。それは驚きました。かなり赤裸々に書いていますが、鹿野さんは、何かおっしゃっていました?

渡辺 鹿野さんはその本を「自伝」と呼んでいたんです。「どうですか。進んでますか、僕の自伝は──」という具合に(笑)。だから、見せるまで、鹿野さんがどう反応するかは不安でしたよね。肝心な部分を「書くな」と言われたら困るなと。

__肝心な部分というのは。

渡辺 鹿野さんもただの人間で、聖人君子ではないという部分。日ごろのワガママぶりの部分を外してくれとか言われたら困るなと。

で、実際に見せたら「これは暴露本だ!」と大騒ぎしていたし、鹿野さんなりにいろいろ言ってはきたけれど、僕が心配するようなことは全然なかったのでホッとしました。

いってみれば、鹿野さんは“天然キャラ”というか、日々多くの他者と格闘して生きている人だけあって、何でも許容してしまえるような包容力のある人だったのかもしれない。

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__その時にまだ書けていなかった2、6、7章というのは、ボランティアの人たちについて書いた部分ですよね?

渡辺 そう。30人以上のボランティアを深く取材して、ほとんどの人たちと顔見知りにもなっていたけど、なかなか書けなかった。つまり、健常者側の問題を整理するのが難しかったということだよね、驚くべきことに。

ボランティアをする人たちが抱えている悩みや葛藤というのは、一般の健常者が誰しも抱えているような悩みなんだけど、書きようによっては大げさにとられてしまう危険性があって。そのバランスがすごく難しかった。

例えば、あるボランティアの人がつぶやいた言葉があるんですけど──「一人の不幸な人間は、もう一人の不幸な人間を見つけて幸せになる」という言葉なんです。

それを聞いたときはドキリとして、この言葉をどう受け止めればいいのかが本当に難しかった。結局、ボランティアしている人たちは、みんな人生に悩みを抱えていたり、家庭環境が複雑だったり、あるいは、心を病んだ人たちが多いのではないかと、間違って受け取られたら大きな誤解につながるし、悩みに悩みましたね。

__本のあとがきには、エピローグ以外の部分を書き上げていたのに、それを見せる前に鹿野さんがお亡くなりになった、と。

渡辺 そう。付き合っていた女性とのエピソードとか、鹿野さんの最もドロドロした部分も含めて、鹿野さんにどう言って見せようかと迷っていた時に、生きるか死ぬかの大変な状況になってしまって、結局見せないままで鹿野さんは亡くなっちゃったんですよ。

__出版に際しては、鹿野さんのご両親が許可してくださった形になるんでしょうか。渡辺さんご自身が取材だけではなくボランティアもするようになって、ご両親とも仲良くなられたと書いてありましたね。

渡辺 鹿野さんのお父さんは、鹿野さんが亡くなった翌年に亡くなってしまったのですが、お母さんは今もお元気で、札幌市の隣の石狩市というところに住んでいます。そこに、鹿ボラ(=鹿野ボランティア)のメンバーが、いまだに月1回くらい集まってるんです。

みんな自分の実家に帰るような感じで、着いたら「いやあ、もうまいったよー」とかお母さんに言って、ソファーにゴロンと横になるような親しい間柄なんだけど。

でも、お母さんからは今でもよく言われますよ。「書いて欲しくない部分まで本にしちゃって」と。お母さんは、本を出してしばらくは口も利いてくれなかったから。

__え? そんなことがあったんですか?

渡辺 でも、それは当然だと思う。自分の息子が亡くなって、思い出すだけで泣けてくるような時期に、息子さんのことを本にします、しかもやたらと生々しく、「わがままでエロおやじで」とか書かれるわけでしょう。冗談じゃないと怒るのが当然で、口を利いてくれない程度で済んだことに感謝しなくてはならないですよね。

それもあって、鹿野さんが亡くなった後に、家の片付けを毎日手伝ったり、当時は元気だったお父さんが、「ナベさんが一生懸命やったんだから、母さん、何も言うんでない」って言ってくれたのもあったし、そうやって少しずつ信頼を回復していったというか。

それと、僕は完全にボランティアの一人として、鹿野さんを介助するような関係になっていたから、そこも大きかったでしょうね。

__本を読んでいると、鹿野さんのお母さまは、渡辺さんにとって大切な存在だったように感じました。そういった方々が、傷つくことが目に見えていても、それでもやっぱり書かなくてはいけないと思ったということですよね?

渡辺 そこは、書き手の生命線だよね。

__生命線。

渡辺 よく、新聞記者は「一期一会」とか言うよね。取材は一発勝負だから気合いを入れろとか、取材相手とは一定の距離を取らなくてはならないとか、いろんな意味で言うんだろうけど、僕は「一期一会」で取材が終わることはまずないです(笑)。鹿野さんの時だって、自分が取材者なのかボランティアなのかわからない状況になっていたし、そういうふうに取材相手と深くつき合って、その人が置かれた状況を実感できるようにならないと、相手の本質は見えてこないと思ってます。

ただ、友人のように親しい関係になってしまうと、書くべきことを手加減して、表現をゆるめちゃおうという誘惑にかられたりもする。でも、それでもなお、書くべきことは書かせてもらうというスタンスを取れるかどうかが、書き手の生命線でしょう。

__それが生命線だというのは、なんとなく私にもわかる気がします。でも、「これは何がなんでも書くべきである」という大義は、どこからくるものなんですか?

渡辺 それは不思議だよね。「この部分を書かなければ、世の中に問う意味がない」という自分だけの基準なのかもしれない。それが、いったいどこからくる大義なのか、何に対しての忠誠心なのかもわからないけど、僕の場合は、そこをクリアできないと、作品としてどうしても完成しないんですよ。

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渡辺 だから、自分でもよく思いますよ。編集者はこれでOKだと言ってるのに、どうして自分は納得できないんだろうって。取材させてもらった人の中には、こんなことを書いちゃったら、もう二度と会ってくれないだろうなと思えるような人もいるし、ノンフィクションは実在する人を実名で書くわけだから、訴訟のリスクも付き物ですから。

それでも、自分が納得できないものはしょうがない。そういう基準がどこから来るのかは全然わからない。僕だって基準をゆるめて、一日でも早くその苦しい状況から抜け出したいんだよ。でもできないのは、どうしてなんだろうね。

書いて、崩して、また書く。その狂気について

__「書くべきことを書く」。それは、世の中のためにというより、自分の思いが一番なんですか? だとしたらそれは、ノンフィクション作家のエゴなのでは?

渡辺 でも、エゴと言うなら、取材相手におもねって、その人を喜ばせたいという思いもエゴかもしれない。そういう姑息な思いは、僕の中にももちろんあるんだけど、それより大きいのは、自分が目にした現実を丸ごと書かなくては意味がないという思いですよね。

__今、「エゴではないか?」といったのは、私自身が今一番悩んでいる問題でもあるからです。ノンフィクションって結局、書き手が見た世界、つまり「自分が見たい世界」を描いているという意味では、やはり書き手のエゴではないのか?

渡辺 自分がインタビューされる時のことを考えると、「この人は最初から自分の落としどころを決めているな」というケースはよくありますよね。自分がつくった仮説に従って、それに当てはまるセリフを取材相手に言わせて、それをあたかも「現実」であるかのようにして提出するということなんだけど。でもそういう世界は「独我論」にすぎなくて、ノンフィクションといいながら、しょせん書き手の頭の中だけでつくり上げた世界でしょう。

僕はノンフィクションの現場というのは、そうじゃなくて、自分と他者がぶつかり合う場だと思うんです。たいていインタビューをすると、他人って、自分が思ってもみなかったようなことを必ず口にするでしょう。それによって、自分が最初抱いていた仮説やイメージがどんどん裏切られていく。
だから、いったん自分の考え方が、粉々に砕け散ってしまうような体験を経ているかどうかが大切だと思うんです。そこから、他者の言葉によって右往左往させられながら、新たな考え方を再構築していく。それは、最初から自分が想定した鋳型の中に、相手のセリフを落とし込んでいくこととは違いますよね。

__自分と他者がぶつかり合う場所。

渡辺 現場に行くと、自分だけではなく、他者にも自分とまったく同じように独自の世界観がある。だから、自分の世界観と他人の世界観をすり合わせていくプロセスの中で、自分と他者の関係だとか、社会に対するこれまで誰も言葉にしてこなかった現実の新しい見方や考え方を描き出していくことに意味があると思っているんです。

__だとすると、どこまで取材するかは、本当に難しい問題になりますよね。取材の回数も重要でしょうし。

渡辺 取材相手と何度も会って話を聞くたびに、自分が再構築した仮説をまた崩されるわけですよ。鹿野さんの場合で言えば、僕は日常的にボランティアの一人になってしまったから、毎回壊され、そのたびに再構築して、これは無限に続くんじゃないかと思ったよね。

この本(3冊目の著作『なぜ人と人は支え合うのか』)だって5年もかかってしまったのは、2章から4章までは、草稿のような文章を何年も前に書いていたんだけど、取材すればするほど、それを読み返すのも苦痛になって、書き進められなくなってしまったからです。担当編集者は「いい」とは言ってくれるんだけど、自分の中では「まだ現実のごく一部しか書けていない」という思いが消えなくて、読み返すたびに無残な思いに直面しなきゃならないから。それをどうやって再構築するのかということに、結局5年もかかってしまった。

__初めてお会いした時からうっすら思っていたんですが、大変失礼ながら、ある種の狂気ですよね。

渡辺 いや、親しい編集者からも「渡辺さんは狂ってるから」と冗談でいわれるけど(笑)、半分は冗談ではないですよね。とくに『北の無人駅から』を書き続けていたときの8年半はひどかった。その間、結婚していたんだけど破綻してしまって、相手にはすごい迷惑をかけたと思ってるしね。

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__それはそれは……

渡辺 でも、自分はこれをするために生まれてきたとまでは言わないけれど、それに近い感じだから。結婚相手には、「あなたは自分のことしか考えてない」とかよく言われたけど、自分のことを考えたら、もうちょっと楽に生きたいよね。自分だって苦しくてしょうがないわけだから。
書くことによって自分を知りたいとか、自分探しとか自己表現とか、そういうレベルの話じゃない。これをやらないと生きていけないって思い込んじゃってるんだから、しょうがないよね。

井田真木子さんというノンフィクション作家がいて、もう亡くなってしまって、僕は直接面識はないのですが、井田さんもまさに「狂気」の作家といえる人です。
ノンフィクションの世界では天才といっていい作家の一人だと思うし、僕は井田さんが確立したノンフィクションのスタイルからモロに影響を受けているけど、井田さんがメシもろくに食わずに、ひたすら書き続ける人だったというような狂気じみたエピソードは、業界内ではよく耳にしますよね。
結局、亡くなり方も自分の部屋で行き倒れみたいに死んでいたそうですけど、彼女を天才と呼ぶのであれば、天才って、とてつもなく辛いことなんだと思いますよ。

__才能があるって、残酷な話ですね。

渡辺 僕にとっても人ごとではない。一つの作品に取り組み始めると、久しぶりに会う人から、たいてい「痩せたねー」とか「ちゃんと食べてる?」とか心配されるような生活ですから。
どうしてそこまでして、っていうのは、もう宿命とか、その人が持って生まれた度量みたいなもので、神様から与えられた使命という言い方をすると、ちょっと宗教っぽいから違うんだろうけど、でもそうとしか言えないところもありますよね。
とにかく、才能というべきか、宿命というべきかわからないけど、それくらい「書く」ことに向き合わないと、人の心を突き動かすものは書けないという気はしますね。

書くこと。書けないこと。それでもなお、書き続けること

__私は、明らかに「正気」の人なので、このインタビューも決して8年かけてまとめるわけにはいかないのですが(笑)、でも、渡辺さんの凄まじい「狂気」は3冊の本から受け取りました。だから、お目にかかりたい、話を聞きたいって感じたんだと思います。この本を書き上げる「狂気」の裏側には、何があるんだろうって。

渡辺 先日、たまたま講演会で話をするために、『北の無人駅から』を読み返していたんだけど、あの、自ら進んで迷宮に入り込んで行って、出られなくてもがき続けるような感覚というのは、今振り返っても恐ろしいですよ。
もう二度と書けないだろうし、二度と味わいたくないと思って、三作目の『なぜ人と人は支え合うのか』に取り組んだんだけど、これはこれでぜんぜん違った苦労がありました。

__手法はまったく違いますよね。『こんな夜更けにバナナかよ』は思考のプロセスが見えるもので、『なぜ人と人は支え合うのか』は思考の結果が見えるもの、といいますか。

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渡辺 この本はノンフィクションというより、若い人たちに向かって書き始めた本なんです。「バナナ」を書いてから15年経って、社会的な状況としては、ますます「人に迷惑をかけてはいけない」とか「自己責任」とか「自分で自分のことをできない人間には尊厳がない」とか、そういう規範や考え方が強まる一方で、2016年には相模原市で衝撃的な障害者殺傷事件というのも起こったでしょう。

僕は「バナナ」で体験したことや、その後親しくなった障害当事者の友人を通して、むしろ彼らの方が社会を支えてくれている側面があることをよく知っているし、そこをしっかり言葉にしていかなくては、亡くなった鹿野さんに合わせる顔がないと思っていたんです。その意味では、この本は「バナナ」の長いあとがきといってもいいし、15年経った後日談でもある。

それと、「バナナ」が映画化されることになって、たくさんの人がこの世界に関心を持ってくれるのはありがたいことだと思う半面、映画に描かれた世界がすべてであると思われたら、それも残念です。これまで多くの障害当事者の人たちが、社会に提起してきた問題は、とても2時間程度の映画では描き切れない広がりと深みを持っています。
そういう意味では、初めて使命感を持って書いた本なのかもしれない。

__渡辺さんの3冊の著作に共通するのは、「世の中は単純な二項対立ではない」というメッセージのように思います。「バナナ」の障害者と健常者、「無人駅」で描かれる観光誘致と環境保護。そして「支えると支えられる」こと。それらの境界線が曖昧になっているのが、今まさに、私たちが生きている世界だなあと。

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__渡辺さんの書籍には、よく、ねじれ、ゆらぎ、めまいというワードが出てきますけれど、確かにねじれたわかりにくい時代になりましたよね。

渡辺 でも、今の時代がそうだというわけではなく、そもそも現実というものは単純な図式では語れないものだと思います。

__単純な図式では語れないことを、ちゃんと調べ、自前の頭で考えるという態度は、これからを生きる私たちにとって、すごく大事なことだと思います。 そう考えると、ノンフィクション作家は、炭鉱のカナリアかもしれないですね。

渡辺 それはノンフィクションだけではなく、優れた小説も炭鉱のカナリアだし、優れた音楽も、詩も、やはり炭鉱のカナリアでしょう。 逆に、そうでないノンフィクションも山ほどあるだろうから(笑)。

だけど、その優れたものと、優れてないものの差が、何によって生じるのかは、僕自身にもわからないんだよね。どこで、「それ」が決まるのか。

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渡辺 ぼく自身は、ホンネをいうと、今の自分のようなスタイルをやりたくてやっているわけではないです。佐藤さんのように、1年に10冊とはいわないまでも、1年に1冊本が書けるような人になれるものなら、なりたいよね。でも、なれないものはしょうがない。
結局、話が戻ってきてしまうけれど、才能とは何かといったら、やっぱりすべて失ってもいいと思えるほど打ち込めるかどうかなのかもしれないね。そう思って、自分を励ますしかないよね(笑)。

__ここまで聞いてきて、私にはその準備も覚悟もないなと思いました。いま「全てを失ってもいいと思えるほど」とおっしゃいましたけれど、本を書き終わった後にも続く人間関係はありますよね。

渡辺 そうですね。さっき言った鹿野さんのお母さんや、鹿ボラのメンバーとは、ほとんど家族に近いような関係だし、「無人駅」の方でも、3章に出てくる農家の鈴井さんや、7章の旧白滝村の神さんなんかは、お米やらじゃがいもやら、いつも送ってくれたりね。

__彼らと会い続けるのは、今後の取材のためではないですよね?

渡辺 会っているうちに何か生まれるのかもしれないけれど、別に次の本を書くために会っているわけではないですよ。単純に、自分の人生にとって大切な人たちだから会っているだけで。でも、振り返ると、取材をきっかけに、自分の人間関係が豊かになっていくんだよね。

だから、18年で3冊しか書けていないけれど、それは僕にとって全然苦ではない。この3冊を書くことで、これほど豊かな人間関係をいただいたんだから。

__さっきあれほど苦しいとおっしゃっていましたが、苦しくない、と。

渡辺 なんだろうね。書きたいけど、書けない。苦しいけど、苦しくない。書くことって、自分でもわからないことだらけだよね。そんなふうにこのインタビューをまとめてもらえるとありがたいんだけど。これから何かを書きたいと思っている人にとって、こういう人もいるんだからと励みになるかもしれないしね。

__はい、いろんな質問に答えていただき、ありがとうございました。

(了)

撮影/中村彰男
取材・文/佐藤友美

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渡辺一史さん
1968年名古屋市生まれ。中学・高校・浪人時代を大阪府豊中市で過ごし、1987年、北海道大学理II系入学と同時に札幌市に移り住む。1991年、北大文学部行動科学科を中退後、北海道を拠点に活動するフリーライターに。2003年刊の『こんな夜更けにバナナかよ』で大宅壮一ノンフィクション賞、講談社ノンフィクション賞、2011年刊の『北の無人駅から』でサントリー学芸賞、地方出版文化功労賞などを受賞。札幌市在住。

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