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なぜ「新しく眩しい未来」に聴こえるのだろう。山下達郎さん全国ツアー『PERFORMANCE 2022』を観て

古いものや、過ぎ去った昔をなつかしむ気持ちのことを、郷愁、ノスタルジアという。では、新しいものに憧れる気持ちや、まだ見ぬ未来を眩しく思う気持ちは何と呼べばいい? 探しているのだが、しっくりくる言葉が思いつかない。

そんなことを考えているのは、全国ツアー中の山下達郎さんのライブ『PERFORMANCE 2022』を聴きに行った夜からである。東京公演はチケットが取れず、キャンセル待ちで当たって静岡公演まで足を運んだ。

御年69歳。「前期高齢者ですから」と自虐し、「老人虐待だよ」と、よぼよぼと足をひきずって歩くふりをした次の瞬間、伸びやかなロングトーンを響かせる。めちゃくちゃお元気だ。

『クリスマス・イブ』が発売されたのは1983年。JR東海のコマーシャルソングに起用されたのが、私の生まれた1988年。物心ついたころには、クリスマスが近づくたび「雨は夜更け過ぎに 雪へと変わるだろう」のフレーズを浴びるように聴いていたことになる。

しかし、なつかしむような気持ちはちっとも湧いてこない。

イントロを聴いて私がいつも感じるのは、都会に住む大人の恋愛の眩しさである。

都会の街角に飾られたツリーとイルミネーション。男女の間で交わされる、曖昧な約束。そこには田舎の商店街で買った甘すぎるケーキや、野暮ったいプレゼントや、家族と過ごすぬる温かい時間などは存在しない。おしゃれで、大人で、恋愛していても孤独だ。それが格好いい。イントロが流れる瞬間、私の心は、まだ見ぬ都会や大人になった未来の自分へと向かう。

はたと我に返る。おい、もう十分、私は大人だ。住民票は東京都にあって、まあまあ都会の暮らしをしてきた。そして知っている。イブの日に街のイルミネーションを見に出かけるのは、人間の後頭部をじっと眺める苦行タイムだし、来るかわからない異性との約束は地獄の極みである。

憧れた都会の大人の世界は、近づいてみたらさほどたいしたものではなかった。外側だけはキラキラと輝いているように見えても、経験してしまえば中身は虚しい。どこですか、あのおしゃれで洗練された大人のシティ。私に見えないだけ? バブル崩壊前にはあったの? こちとら失い続けて30数年の日本しか知らないのよ。

最近の都会人はなんだか口を揃えて地方、地方と言うし、私自身も都会的なものに対して急速に興味を失い始めている。子どものときに思い描いた「憧れの都会」は、もはや実在しない。

ところが山下達郎さんの音楽は、そんな私にも「まだ見ぬ洗練された都会」への憧れに似た気持ちを抱かせる。心は自然と、眩しく新しいほうへと向かう。ただしそれは時間軸上の未来、物理的な新しさとは限らない。

時間軸では過去にあたること、または実在しないファンタジーであっても、「まだ私はそのすべてを知らないが、きっとそこに洗練されたものがあると予感させる」点で未来のように新しく感じられることがある。山下達郎さんの音楽は、まさにそれなのだ。

不思議だ。山下達郎という人間をジュークボックスに喩えるとしたら、その内側に詰まっているのは過去の音楽のはずである。影響を受けたというドゥーワップ、アメリカの西海岸ロック、ポップス。そして自身が紡いできた楽曲の数々。

しかし、それがひとたび山下達郎という身体を通し、奏でられると「私の知らない、洗練されたもの」が香る。たとえ1950年代のアメリカの街角で歌われたゴスペルでも、日本の田舎で過ごす少年時代の夏休みでも、同じ煌めきを持ってしまう。

脳天から衝撃を打ち込まれたみたいな時間だった。「世界にはきっと、まだ私の知らない、洗練された美しいものがたくさんある。この人はそれを知っている」。そう思えるのは希望だ。私は確かに希望を聴いた。

文/塚田 智恵美

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