
いい音がする文章【さとゆみの今日もコレカラ/第447回】
ある時期、といってもまあまあ最近のことだけれど、徹底的に朱字(赤字)を入れてくれる編集者の方と仕事をしていたことがある。
なるほどそう書けばもっと意味が明確になるとか、論理展開がより強固になるとか、多くの勉強をさせてもらった。
一方で、その朱字のとおりに原稿を修正すると、別の違和感が生まれた。修正によって意味はわかりやすくなるのだけれど、「音」が崩れるのだ。
この場合の「音」とは、リズムだったりメロディだったりする。当時はビートという意識はなかったけれど、今振り返るとビートのときもあったように思う。
だから私は、編集者の修正意図を汲みながら、前後の文章も細かく書き換えていた。
一文修正するなら、前後の文章も修正しなくてはならない。
なぜなら、「音」が変わるから。
一文字修正するなら、前後の文字も修正しなくてはならない。
なぜなら、「音」が変わるから。
このことを学べたのは、とても良い経験だった。
そしてもうひとつ学んだことがある。
原稿の「意味」は朱字修正できるけれど、「音」の修正は書き手以外には難しい、ということだ。
「だ」にしても「だった」にしても「のであった」にしても問題ない場合(正確にいうとこの3つは意味も微妙に変わるが)、編集者はあえて朱字を入れないことが多い。どれも、間違ってはいないからだ。
だけど、その3つの違いは、「音」を意識して書いている書き手にとっては、致命的な違いがある。
いま、私が、誰かの原稿を添削したり編集するとき、朱字修正よりもコメントを多用するのは、このためだ。
どこか一文に朱字を入れると、音が崩れる。すると、前後の文章も手を入れたくなる。でも、そこで前後の文章の「音」にまで手を入れると、その文章はその人の文章ではなくなってしまう。これは、その人の文章を蹂躙することに近い、と私は思う。
どの「音」を選ぶかは、書き手の身体性に密接している。私と、その書き手の「音」は違う。
だから、意味だけではなく、音まで注意を払っているであろうと思う文章には、「ここ、◯◯なので、意味がとりにくいかも」「△△の根拠も入れておきましょうか」と、コメントをするだけにとどめている。
といったことを、いま、わりとすっきり言語化できたのは『いい音がする文章』を読んだからだ。
チャットモンチーのドラマーだった高橋久美子さんが書いたこの本。
音楽家であり、文章の書き手でもあり、詩人でもある高橋さんだからこその「音と文章」への考察が全面展開されている。

どんな本にも似ていない。
だけど、私、こういうのを読みたかったんだあという感じ。
1章ずつ、いや、1見出しずつ、高橋さんの文章と同じくらいの長さの感想を書きたいくらい、脳を攪拌されている。
またいつか、この続きを書きます。
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