
深夜2時のクラインの壺【さとゆみの今日もコレカラ/第477回】
雨は夜更けすぎに雪へと変わり、京都鴨川沿いを歩きながら深夜2時。
直前までライターの先輩堀さん(ホーリー)と飲んでいた私は、サイレントナイトだし、ホーリーナイトだわあと思いながら、静まった通りを30分歩いた。
昨夜は堀さんの日本酒サロン「粋」で『書く仕事がしたい』の読書会を終え、打ち上げをしようと二人でお蕎麦屋さんに寄った。堀さんが最後に話していたのは「人には物語が必要である」という話だった。
人はなぜ小説を読み、映画を観て、ドラマで泣いた方が良いのか。
たしか堀さんは、村上春樹さんの話をしていたと思う。
春樹の小説は、ストーリーを追うだけでも面白く読めるけれど、底のほうに「病み」の世界があって、そこにアクセスできる人たちがある一定数いる。その世界は文章で直接書かれてはいないけれど、日本語だけではなく、どの言語でもアクセスが可能で、だから春樹小説は世界中で読まれるのではないか。
そんな話を聞いていた。
ダブルミーニング、と私は声に出して言ってみる。ちょっとしっくりこない。
「なぜ、物語が必要なのか」
その問いをもう少し考えたくて、店を出たあと、歩いて帰ることにした。
たとえば本を読むという行為は、そこに書かれた世界の住人になることだと私は思う。
その世界にいるときの私は、だいたい物差しを持っている。世界と自分との間に、どれくらい距離があるのか。近いのか遠いのか、気持ちよいのか不快なのか。
物語を読んでいるようで、物語との距離を測っている。物語に反応している自分の体を観察している。
具体的な物語は、私の体に取り込まれるときに抽象化される。そして抽象化された物語は、私の体を何周もして言語化されて、別の具体に形を変えて表出する。
具体と抽象を行ったりきたり。
1冊読み切る頃には、私は物語の中に住んでいるし、私の中に物語が住む。
そんなメビウスの輪のような、クラインの壺のような、ねじれ混ざる世界を思い浮かべながら、しとしと歩いた。
そういえば、春樹さんも「ものさし」について書いていたなと思い出す。
『風の歌を聴け』はものさしを持って世界を数値化することの落とし穴について書かれた本だった。
数字は具体だ。
ああ、だからか。だから、あの男は自分の存在を見失ったのだ。
レーゾン・デートル。
具体の話じゃなくて、抽象の話をすればよかったのかな。
何十年も前に読んだ本の、何度も何度も読んだ本の、その具体を、今また抽象化して取り出して眺めては、手の上で転がして、雪だるまのようにしてみる。
祇園から七条まで戻ってきたころにはもう雪はやんでいて、問いはまだ問いのままで、だからその問いはポケットに入れて一時保留。
なぜ物語を読むのだろう。
なぜ物語が必要なのだろう。
朝起きたら、ポケットから溶けかかった雪だるまが出てきた。
なぜ物語を読むのかな。
なぜ物語が必要なのだろう。


