
書くことの不純(起)【さとゆみの今日もコレカラ/第500回】
ある出来事を書こうと思うと、目をこらす。耳をすませる。匂いを探し、手触りを確かめる。
写真は撮らないけれど、ここぞと決めて大きくゆっくりと、瞬きをする。「この景色を記憶する」と決めて、目でシャッターを切っている。もしくは、ムービーを回している。
五感を総動員してその時間を味わうと、その瞬間が凝縮される。その瞬間に感じたことも、ぎゅっと閉じ込められる。手のひらの上に、手のひらサイズの記憶がのる。
イメージするのは、琥珀だ。オレンジっぽい個体の中に、ときには太古の昆虫が閉じ込められている、あれのように。
手のひらの上に、私の記憶がぎゅっと凝縮されて、オレンジの個体になってのっかる。
ちゃんと記憶できたと思ったら、安心してその場を去ることができる。
次の日の朝なのか、数日後なのか、数年後なのか。
私はどこかにしまってあったその琥珀を取り出して、手のひらの上にもう一度載せる。そして、そのオレンジ色の個体を両手で温める。
バターのように、手のひらの中で琥珀が溶けていくのと同時に、脳内でその日の映像がリフレインする。
その映像を見ながら、書く。溶けていく記憶を急いで書き留めながら、その溶けていく様子を見ながら考えたことも、書き加える。
琥珀バターは、どんどん溶けて、蒸発しようとするから、それが消えてしまう前に書き終わると安心する。
書き終えたら、もう、覚えていなくても良いと思う。
もう、忘れてもいいんだと思えることは、救いだ。
かくて、文章に書くと、その出来事は、いつでも思い出せるようになる。
しかし、文章に書くと、その出来事は、文章で書いたようにしか思い出せなくなる。
書かずに、いろんなことをゆっくりと忘れていくこと。
書いたこと以外は、早急に忘れてしまうこと。
それでも書くほうを選ぶのか。
5年前からずっと考えながら、今日も書いている。
今日もコレカラ、500日目になりました。
「今日もコレカラ」は、毎朝7時に更新して、24時間で消える文章です。今日もコレカラ、良い一日を。
・・・・・・・・・
【この記事もおすすめ】
原稿を書こうとするとキレイと感じる空や木々などの景色を文章と絵でどうやって表現しようかと、よく観察するようになった。すると、眺めている景色の画質がガラケーとスマホで撮影した写真の違いくらい変わった。


