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幸せの原資を貯める(大阪府 金剛山)【チェアリング思考/第7回】

画家であり美容師であり、そして今はライターとしても活動したいと思っている私は、5年前から「チェアリング」をはじめました。アスファルトの上でも自然の中でも、椅子に腰かけると、そこが自分だけの空間へと変わります。そして思考が攪拌されていきます。ここで生まれる思考のことを、私は「チェアリング思考」と名づけました。今回は、2025年2月に訪れた冬の金剛山(こんごうざん)でのチェアリングのこと。

新雪を踏む音に耳を澄ませ、山を登る。沢を流れ落ちる小滝は所々で凍り、水晶のように光る。2025年2月、大寒波が過ぎ去った翌日。バックパックに折りたたみ椅子とコーヒーミルを入れ、大阪と奈良の県境にある金剛山に霧氷(むひょう)を見ながらチェアリングしようとやってきた。霧氷とは氷点下に冷却された水蒸気が樹木の枝葉に吹きつけられ、凍結してできる氷のことだ。

標高1125mの金剛山では四季に合わせて、白い小花を咲かせるニリンソウなど多種の野草、青い羽のルリビタキなど多種の野鳥を見ることができる。頂上まで複数の登山ルートがあり、関西で一番登山者が多い山だ。私はいつも登山者が少ないルートを選び、頂上まで登らず、その日に見つけた心地いい場所で1年を通してチェアリングを楽しんでいる。

この日も心地いい場所を求め、白く染まる山道を進む。標高が上がり、スマホの電波が途切れた。コゲラ(キツツキ)が小気味よくコンコンコンと木をつつく。沢を流れる水の音が消えると、登山靴につけたアイゼンがガリッと音を鳴らす。沢が凍り始めた。行く先を見上げると、葉が落ちた木の枝に、針のように尖った氷が重なり並んでいる。白く繊細な霧氷の花が咲きだした。誰もいない今日のチェアリング場所に辿り着いた。

バックパックから折りたたみ椅子を取り出し、アルミポールでできた脚を組みあげる。雪の上に椅子を置き、腰かけた。太陽に照らされた雪肌は微かに溶け、煌めいている。ガスバーナーでお湯を沸かし、コーヒーミルのハンドルを回す。チタンマグの上にドリッパーを置き、挽いた豆をセットする。お湯を静かに落とすと豆が膨らみ、芳醇な香りが鼻を抜ける。ナッツのような味わいのコーヒーを楽しみながら、目の前に広がる霧氷の世界をぼーっと眺めた。

両手で包んだチタンマグから温かさが消える頃、風が木々をいっせいに揺らす。上空から桜の花びらが散るように、霧氷の花が光の粒となり、パラパラと音をたて舞い散った。手のひらに乗った霧氷は静かに消えていく。椅子の背もたれに体を預けると肩の力は抜け、ゆったりと呼吸が刻まれる。凍晴(いてばれ)の青空と、凛とした霧氷が清々しい世界をつくる。辺りは静寂に包まれた。

めっちゃキレイ、はぁー幸せ。

自然美に囲まれた場所でチェアリングをしていると、私にとって心身ともに満たされた“ウェルビーイング”な状態になれる。

安心感に包まれると、美容室にご来店くださる御年75歳のゲストとの会話を思い出した。目元をくしゃりとさせ「最近ね、鳥のさえずりを聴く時に感じる小さな幸せって、“貯めることができる”と思うのよ」とおっしゃった。私は、幸せの感情は刹那的だと思っていたから、貯めることができると考えたことがなかった。「お金を貯めるような感じですか?」と質問すると、「そうよ。お金と一緒ね。幸せの原資を貯めていくと、複利も生まれるのよ」と教えてくださった。面白い考え方だなぁと思った。

幸せの原資を貯める……か。思考が深くなる。

これまでの人生で心が大きく動き、幸せを感じた瞬間はいつだろう。出産に立ち会い息子の産声を聞いた時、西表島の夜空にかかる天の川を眺めた時、小学6年生の時から美容室に通ってくれていたゲストの成人式のヘアセットをした時。どの瞬間も、自分の内側にある収納棚のような場所に大切にしまっている。その引き出しから時々の瞬間を取り出すと、当時の幸せな感情を思い起こすことができる。幸せの原資が貯まっていると言えるかもしれない。

じゃあ、ゲストがおっしゃっていた“小さな幸せ”はどうだろう。部屋に朝日が射し込んだ時、お風呂に浸かった時、キンキンに冷えたビールを喉に流し込んだ時。時々で感じる小さな幸せも貯めることができるのかな。でも、何かの形にしておかないと、手のひらに落ちた霧氷のように消えていく。

そう言えば、昔、誰かに「1日の中にあった小さな幸せを3つ手帳に書くといいよ」と言われたことがあった。文章として残せば小さな幸せを貯めることができそうだし、書こうとすることで小さな幸せにより目を向けることができそうだ。

よくよく考えてみると『チェアリング思考』の原稿を書き始めてから、小さな幸せに気づくことが増えた。書き始める前は、自然の中で折りたたみ椅子に座り「めっちゃキレイ、はぁー幸せ」という言葉で終わらせていた。だけど、原稿を書こうとするとキレイと感じる空や木々などの景色を文章と絵でどうやって表現しようかと、よく観察するようになった。すると、眺めている景色の画質がガラケーとスマホで撮影した写真の違いくらい変わった。感度と解像度が上がり、自然の美しさにより気づくことができた。小さな幸せをより味わうことができるようになった。

同時に今まで言葉にしてこなかった、そよ風に葉っぱが揺れるような小さな心の動きや思考に矢印を向けるようになった。ウェルビーイングな状態で自分を内省し、思考を深め、言語化をした。今まで気づかなかった自分の考えや小さな幸せに気づくことができた。

……そっか。『チェアリング思考』の原稿を書くことで、小さな幸せを貯めることができていたんだ。

じゃあ、幸せの複利ってなんだろう。

……そうだ。先日、美容室でヘアカラーの待ち時間に『チェアリング思考』の原稿を読んでくれた50代のゲストがこんなことを言ってくださった。「子どもが小さかった時のことを思い出したやん。なんか幸せな気持ちにさせてもらえた」と、その場で涙してくれた。自分の書いた原稿がゲストの過去の体験や感情と交わることで、新たな幸せをつくることができると知れた初めての体験だった。私もとても幸せな気持ちになれた。

あの体験が“幸せの複利が生まれる”ということなのかな。幸せの原資を増やすことができれば投資することもできる、のかな。幸せの原資のこと、幸せの複利のこと、幸せの投資のこと、これからも考え続けてみよう。

コゲラが木をつつく音が微かに聞こえると、もう一度霧氷の花が音をたて舞い散った。

文と絵/島袋 匠矢

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