京都の秋と書くか、秋の京都と書くか。多分どちらでもいい【新連載・欲深くてすみません。/第1回】
「もっとうまく書きたい」「もっと面白く書きたい」、もっと、もっと、もっと! 書けば書くほど、書くことに対する欲が止まらない。独りよがりの理想はつり上がり、「書く」の世界に深く迷い込む。元編集者、独立して丸7年のライターちえみが、書くたびに生まれる迷いや惑い、日々のライター仕事で直面している課題を取り上げ、しつこく考える連載です。
無限の選択肢を前にして、途方に暮れている
「コロッケ食べてたら正面衝突して、それがあとで一緒に会社を起こした鈴木太郎でした」
ある起業家のインタビュー。取材時に録音した音声データを聞きながら、私は原稿を執筆している。共同創業者との運命的な出会いが淀みなく語られている部分を、たとえばこう書いた。
しかしまあ、いい加減な文章である。どのように、なぜ正面衝突したのか、具体的な描写がないので映像がまったく頭に浮かばない。表現も稚拙な印象を受ける。
書き直そう。
「山手通りでコロッケを買って、食べながら歩いていたら、スマホを見つめたまま早足で歩いてくる男と正面衝突したんです。それが後に共同創業者となる鈴木太郎でした」
具体的になった。ところで、ものを食べながら歩くのは行儀が悪いと思う。歩きスマホは危険だ。自治体によっては条例で規制されている。それ、あえて書く必要あるかね。全国の人が読むものに載るんだよ。インタビュー相手が原稿チェックしたときに、えっこんなことまで書くの、って思わないかな。
「道を歩いていたら、前から歩いてくる男と正面衝突したんです。それが後に共同創業者となる鈴木太郎でした」
うん、まともになった。だけど無難でつまらないわ。それよりこのエピソード、要るぅ?
一事が万事、この調子である。書くとは無限にある選択肢の中から常に選び続けることで、誰も正解など教えてはくれない。そして悲しいかな、凡庸な私がああでもない、こうでもないと言いながら、練りに練った一文のこだわりなんて、他人から見れば取るに足らないことなのである。
それでも私は書き続けたい
はじめまして。ライターの塚田智恵美です。会社を辞めて独立し、もうすぐ丸7年が経ちます。
この業界にいると、売れっ子のライターさんは往々にして、同じことを言う。
最低限の文章力があれば、ライターの仕事はできる。むしろ文章力以上に、仕事人としてのプロフェッショナルな振る舞いが求められるのがライターだ。筆力だけでは仕事はこない。
ライターだけではない。デザイナーさんも、イラストレーターさんも、個人で商売しているクリエイター業の(あるいは、クリエイター業に見える)人たちは、口を揃えて似たようなことを言う。そういえば5年くらい前に、たまたま飲み屋で隣に座ったお笑い芸人さんも言っていた。「ネタが面白いだけじゃねぇ、売れないんですよぉ」。今のところその芸人さんのお顔を、テレビやネット番組で見ることはない。厳しい世界である。
だからコンマ何秒で読み飛ばされる一文についてぐるぐる悩むより、ちょうどいい音量で挨拶をするとか、きちんと取材先や媒体の下調べをしておくとか、我慢を爆発させて仕事相手の悪口をツイートしたりなんかしない健やかな精神を育成するとか、そういうことに注力するほうがよっぽど仕事につながるはずだ。
知ってる。わかってる。ホントそうだと思う。
それなのに、一文字書くたびに考えてしまう。
こんな表現でいいのか? このままで読者は読んでくれるのか?
もっと深く話を引き出せるはず。もっと斬新な展開にできるはず。
だって私は、もっと書ける人のはずだから!
ぴろりろりろん。頭の中に天使の格好をした私が現れ、のたまう。
「あなたの『もっと』はすべてが自己満足よ。そのこだわり、要らない、要らない。この世は有象無象の書き手で溢れているの。自分が特別な書き手だと信じているライターが、どれだけいると思う? 自分が悩んでいることは、さも特別なことだと勘違いしている人が。
普通よ。あなた凡人よ。ちょうど真ん中よ。
その過剰な自意識を、今すぐ捨ててしまいなさい。そしてさっさと原稿を納品しなさい」
それでも私は今日も、「京都の秋」と書くか、「秋の京都」と書くかを悩んでいる。ちなみに今、目の前にあるこの原稿に、京都も秋も、本来出てこなくていいのである。わかっている。私はわかっているのだ。
「ちょっと格好つけるだけの一文にこだわるより、原稿の主題にまつわる肝心なところをちゃんと書きなさい。こだわる自分イコール一丁前の書き手という幻想を捨てなさい。現実を見なさい。仕事っていうのはそもそも……」
頭の中でどれほど声がしても。
もっとうまく書きたい。もっと面白く書きたい。
もっと、もっと、もっとが止まらない。
欲深くてすみません。
*
独立する以前のこと。新卒で入社した会社で、私は5年間『進研ゼミ』の編集をしていた。主に国語に関する教育コンテンツや付録をつくる部署にいたが、私は作文や記述力アップの企画になると積極的に手を挙げ、自分でも企画をいくつか出した。
書くという行為そのものに興味があったのだと思う。そして「作文が書けない」「書くのが嫌いだ」などといった中高生の声を聞くと、奮い立った。「文章は、誰でも書けます!」「書くことは、本当は簡単なのです!」「書けば書くほど、書くことが好きになるって伝えたい!」。25、26の頃である。熱く燃えていた。
タイムマシンで7、8年遡り、その頃の自分に出会うことができたら。「頑張っているね」と頭をなでなでしたあとで、パシーンと思い切り引っ叩きたい。
書くことが簡単だって? どの口が言うか。
逆だ。書けば書くほどわからなくなる。気にすることが増える。理想がつり上がる。深く考え始める。そして迷う。
書けば書くほど「書く」の迷子だ。それでも私は書き続けたい。
これは、日々小さなことで悩むライターちえみの、書くたびに生まれる「もっと」を取り上げ、ネチネチと考える連載です。普段、ライターや編集者と集まって、お酒を飲みながら延々原稿について議論しているようなことを書いてみようと思います。同じく書き手の皆さま、書くことが諦められない皆さま、「もっと」が止まらない同志の皆さま、一緒にしつこく考えられたら幸いです。それではまた次回。
文/塚田 智恵美