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人口1400人、ベンチャー企業50社。岡山県西粟倉村で持続可能な地域づくりに挑戦する牧大介さんに聞く

次々とベンチャー企業が立ち上がり、「スタートアップの聖地」として注目されている岡山県西粟倉村(にしあわくらそん)。それらの活動のキーマンが、西粟倉村に本社を置く「株式会社エーゼログループ」代表、牧大介さん。“ローカルベンチャー”という言葉を生み出した人でもある。西粟倉村の何が牧さんを惹きつけたのか。どのようなプロセスで、過疎化する地域に活気をもたらしたのか。その経緯を、エーゼログループが運営するレストラン、カフェ、ショップの複合施設「BASE101%-NISHIAWAKURA-」で聞いた。(聞き手/井本 旬子)

誰かがやらなければ先へ進めない。起業は行きがかり上(笑)

――山村に、こんなステキなお店があるとは思ってもみませんでした。若い人も多く、活気を感じます。

牧:ありがとうございます。今おられるお客様の半分以上は、村の人たちです。確かに、この十数年で若い人は増えましたね。

――実は17年ほど前、牧さんが登壇されたセミナーに参加したことがあります。持続可能な林業について語っておられましたね。

牧:え?! そうなんですか! 僕が起業する前ですね、きっと。

――はい。その後、西粟倉村で起業されたと知り、驚きました。きっかけは何だったのですか?

牧:西粟倉村の人たちの「森」に対する思いでしょうか。村の人たちは、現代の経済にはない50年、100年といった時間感覚で「木や森を地域の財産として大切にしていきたい」という思いを持っておられました。僕が西粟倉に関わり始めた頃、村長をされていた道上正寿(みちうえまさとし)さんも、お祖父様に「山に貯金を作っておくと、何かあったとき、山が助けてくれる。木は大事にした方がいいぞ」と言われて育ったそうです。道上さんご自身も「森をしっかり手入れして価値のある資産に育てれば、地域経済は回り、人口減少にも歯止めをかけられる」と考えておられました。僕も、その思いに共感したところがあります。

道上さんには、昔の思い出や森への思いをよく聞かせてもらいました。会議室で聞くこともあれば、「もっと深く理解したいから、村長のおじいさんが植えた木や森を見せてほしい」とお願いして一緒に森へ行ったり、「今から来い」と呼び出されたり(笑)。僕もノーアポで村長室をのぞいて「今、空いてますか?」と話を聞かせてもらうこともありました。村のトップですが、気楽に村民と付き合ってくださいました。トップとそういう距離感で付き合えるのは、この村の良いところですね。

――森ではどのような話を?

牧:森の中には、道上さんが自分で植えた木もあれば、道上さんが生まれる前に植えられたた木もあります。それら一本一本に触れながら「これは、じいさんが植えた木」とか「これは細いけど締まっているからいい柱になる」と話してくれました。その当時、道上さんは50代だったから、その森は木が植えられるようになってから100年ぐらい経っている。林業はものすごく時間がかかるものですが、その営みは林業の面白さだなと思いました。

道上さんだけでなく、地域の仕事に入るときは必ず、10人前後の住民の方々にどのように生きてこられたのかを聞くようにしています。人の人生を知ることでその地域をより好きになったり、住民の皆さんと同じように地域を大切に思えるようになったりすると感じているからです。

村の人たちの中には、「森を何とかしたい」「村を活性化させたい」と熱い思いを持っている方がたくさんおられました。皆さんの話を聞かせてもらって、僕もここでならやれる、ここで一緒にがんばりたいと思いました。

――そもそも、西粟倉村とはどのようにして出会われたのでしょう?

牧:西粟倉村に出会ったのは、総務省が始めた「地域再生マネージャー事業」がきっかけです。これは、コンサルタントや専門家を自治体に3年間派遣して、民間のノウハウを活用しながら地域を活性化させる制度。当時、僕が勤めていたアミタもこの事業に関わるようになったのです。

2004年ごろ、国策として市町村を合併させる「平成の大合併」が進められる中、西粟倉村は合併を拒否し、自主・自立を決意しました。なぜなら、村が過疎化するシナリオが見えていたからです。例えば、合併すると、学校の統廃合が進みますよね。学校のある地域は文化の中心だから、学校がなくなると人は村から出ていってしまう。つまり、合併することは村の存続をあきらめること。村長は「絶対にあきらめたくなかった」とおっしゃっていました。とはいえ、どうすればいいかわからない。そこで、総務省の「地域再生マネージャー事業」を導入し、僕は地域再生マネージャーの立場で西粟倉村に関わるようになったのです。

――当時は、他地域でも地方創生のプロデューサーをされていましたよね。他の地域と西粟倉村との違いは感じられましたか? 

牧:他の自治体は、平成の大合併後、混乱して身動きが取れないという印象がありました。一方、西粟倉村は一丸となって前向きに動ける状況でしたし、動く気持ちのある人たちがたくさんいたんです。役場の方々をはじめ村の人たちは、「合併しないと決めた以上、何とかしなきゃいけないんだ」という強い気持ちを持っておられたのが印象的でした。

西粟倉は、自主・自立するために、森から経済を生み出して地域を元気にしたいと考えていました。でも、それまでのように、森の手入れをするだけでは森から経済も雇用も生まれません。ですから、50年、100年の超長期的視点で森を育てること、そして、切り出した木を活用して経済や雇用を安定させる仕組みづくりを進めるための計画を立てたのです。

その計画を受けて僕が提案したのは、山から切り出した丸太を加工して商品を作り、流通までを担う会社の設立です。森の木々を間引きする間伐は、森を育てるのに大切な作業です。でも、お金や労力がかかる割に、間伐で切り出した丸太はあまりお金になりません。そこで当時、森林組合の職員だった國里哲也さんは、森の所有者の代わりに自ら森に入って間伐し、間引いた木材を有効活用するために保育家具・遊具を作る「木の里工房 木薫(もっくん、以下木薫)」を立ち上げたんです。そうすれば、森の所有者に、自社製品の材料代としていくらか支払えると考えたからです。森の所有者にしてみれば、もうけにならない間伐作業を木薫さんに任せられるし、お金も入ってくる。しかも、森が育つというメリットがあります。

牧:問題は、丸太を板に加工する製材所が村内に1軒しかなかったことです。当初はそれで間に合っていました。でも、生産量が上がるにつれ、その工場だけでは追いつかなくなり、村外への「外注」が増えてしまったんです。それを村内でできるようにするためには、丸太を製材できる工場が必要だったんです。

また、森を中心に地域で経済を回すには、森の手入れをし、切り出した木を加工して商品にして流通まで地域で担い、木の価値を高める必要があります。そのためには、プラットフォームになるような会社があったほうがいいと考えたのです。

――その提案は受け入れてもらえたのですか?

牧:「その会社を立ち上げるのはいいけど、誰がその経営責任を負うんだ」という話になりました。確かに、やってみないと分からないような事業だから、簡単に引き受け手が見つかるはずはありません。それでも「これは、必要な会社なんです」と言い続けたら、「じゃ、牧さんがやったらいいじゃない」ということになって。

――それで、やることに?

牧:はい、行きがかり上(笑)。それで僕が「西粟倉・森の学校」という会社を立ち上げて、木薫さんに、商品を作るための材料を加工して提供することになったんです。

僕自身も、この提案が実現して村がどう変化するか見てみたかったし、自分がどこまでやれるか試してみたいという気持ちがありました。周りの人に「やってみたら」と背中を押されたので踏み出しやすかったですね。

それに、起業といってもゼロからのスタートではありません。アミタから7,000万円借りて、関連会社として事業をはじめたので、社内で新しい事業を立ち上げるという感覚でした。まぁ、大変でしたけど(笑)。

知り合いから100万円ずつ借りてしのぐ

――どのようなことが大変でした?

牧:一番大変だったのは、お金のやりくりです。設立後、しばらくしてから、アミタ社から資本的に独立し、新たに工場を立ち上げたあたりから資金的に厳しくなりました。製材や木材加工の事業は、機械をそろえるのにかなりの投資が必要なんです。ですから、最初のうちは、ひたすらお金が出続けるんですよ。今振り返っても、ハードだったなと思います。

―――どれくらい赤字が出たのですか?

牧:営業赤字は8,400万円にまで膨れ上がりました。その頃の売り上げは、やっと1億円に届くぐらい。固定費もかさみ、1年で1億円調達できないと手詰まり、という状況でした。見込みが甘かったり、想定が外れたり……と、原因はいろいろあるのですが。

毎月1,000万円ぐらいショートするから、毎月少しずつ、何らかの形でお金をやりくりしないといけない。銀行にも融資を頼んでみましたが、そんな大赤字の会社には貸してくれません。それで、僕の知り合いで100万円ぐらい貸してくれる人をたくさん集めてしのぎました。

――そんな大金を貸してくれる方々は、どういうお知り合いなんですか? 

牧:これまでお世話になった方とか、応援してくださった方とか、いろいろですね。上場企業の経営者で億単位の資産を持っておられる方にもそうでない方にも、とにかく頼みに行きました。頼みに行くと、8割ぐらいの人は貸してくださいました。

最初は、事業計画を説明して、必ず返済できることを伝えていました。でもある時、経営経験のある方に「素直に『助けてください』と頼んだ方がいい。もう潰れそうなんだから」とアドバイスをいただいたんです。それからは「お金がなくて潰れそうなので助けてください!」と頭を下げて回りました。ありがたいことに、頼んだ方の中には「牧君を応援してくれそうだから」と、また別の方を紹介してくれた人もいました。

あとは、投資型のクラウドファンディングを活用しました。とにかく、銀行から借り入れられないので、いろいろな方法で外部から資金を調達しました。この状況は1年ぐらい続き、その後、業績は回復に向かいました。

――何が起こったのですか?

牧:良いのか悪いのか……という話ですが、経営状況を説明して社員のお給料を下げさせてもらったところ、20人いた社員が10人まで減り、固定費が一気に半分になったんです。加えて、個人的にお金を貸してくださった方々が、当社の取引先になりそうなところを紹介してくれたことも大きかったですね。まさに、無報酬で動いてくれる営業マンが日本中にいるような状況です。そこから売り上げが一気に伸びて、2年ほどで黒字に転じるところまで回復できました。本当に、運が良かったなと思います。

――どのような事業を展開したのですか?

牧:主には、間伐材を活用した商品の企画・開発、マーケティングです。木材は丸太のまま原木市場に出すのが一般的です。でも、驚くほど安く、たとえば4mの杉の丸太の売価は1本3,000円ぐらい。森の所有者には500円ほどしか入らないんです。もっともうけを生むには、自分たちで商品を生み出すしか道がなかったのです。

当時、開発した「ユカハリシリーズ」は、現在、当社の主力商品のひとつになっています。腐りや損傷などがある板は板としては売れませんが、腐りや損傷部分以外は使えます。ユカハリシリーズは、そうした短い板を活用しています。

牧:ユカハリシリーズなら、賃貸物件など床施工が難しい住まいをタイルカーペットの要領でフローリングにでき、退室時には入室前の状態に簡単に戻せます。2011年に作り始めて、東日本大震災の支援物資としての使い道があることがわかってから、売り上げが伸びました。主なお客様は工務店さんです。オフィスや店舗などの大規模な空間で施工していただくことが増え、間伐材をたくさん活用できるようになりました。

また、商品を作る過程で大量に出る端材や木くずを活用して、廃校になった小学校でウナギの養殖も始めました。ウナギを育てるには、水温を25~30℃に温める必要があります。木くずや端材は、その水を温める薪ボイラーの燃料に使っています。その他にも、建築・不動産業や国の補助事業など、さまざまな事業を手掛けました。おかげさまで、2022年度、ようやく設立時の目標だった売上10億円を達成しました。

――そのような事業を進めて、村の人たちはどのような反応を?

牧:最初は、なかなか理解を得られなかったですね。それまで村の人たちは、林業を何とかしようと一生懸命がんばっておられました。でも、どうにもならなくて「林業に未来はない」と諦めざるを得なくなっていたのです。なのに、僕たちや役場の人たちは林業を活性化させようとしていたから、「諦めた気持ちを否定された」と感じられたのだと思います。また、僕たちは、まだ誰も見たことのない未来を作ろうとしていたわけだから、村の人たちにはその事業がうまくいくなんて想像できなかった、というのもあるかもしれません。

それは地域に限らず、日本の伝統的な大手企業でも見られるのではないでしょうか。ある日突然、新参者が新規事業を担当することなったとき、みんなが前向きに応援してくれるかというと、そんなことはありません。当時の僕は、理解されたいのに理解されない寂しさがある一方で、「まだ見ぬ未来を作るのだから、簡単に理解されない方がいいのかもしれない」とも思っていました。容易に理解されるような事業にクリエイティビティは宿らない。そんな気概もありました。

起業家を育成し、村内で15社が誕生

――西粟倉・森の学校の事業が軌道に乗り、村に活気が出てきたのでしょうか?

牧:それもあるかもしれませんが、村役場が主催する起業家を育成する「ローカルベンチャースクール」が立ち上がったことも、村に活気をもたらしました。参加者の中には、西粟倉村に留まって起業した人もいます。エーゼロは企画運営事務局としてこの取り組みに携わらせてもらいました。

ローカルベンチャースクールの事業では、参加者が最大3年間挑戦できるよう、地域おこし協力隊制度などを活用しました。また、参加者が、経営経験のある人たちにいつでも相談できる環境を整えるなどして、事業が軌道に乗るようしっかり支援しました。こうした仕組みは今、どの地域でも取り入れられていますが、西粟倉村が先駆けだったと思います。

――西粟倉村で起業した方は多いのでしょうか?

牧:ローカルベンチャースクールを経て15社ほどが誕生し、その会社から独立して新たな会社も生まれました。現在、村内には約50社の会社があります。売り上げは、50社合わせて20億円ぐらいです。

人口は減っていますが、働いて稼いで税金を納める人の数は多くなった、という印象です。実際、僕が起業した2009年度と比べると、納税者数は7%、課税所得平均は9%伸びています。

――どんな方がどのような会社を起業されましたか?

牧:珍しいところでは、アメリカから帰国して、モンテッソーリ教育の教室を開いた方がおられます。その教室は常に満員で、キャンセル待ちが続くほど人気なんですよ。定員は1学年十数人で、この村の3~6歳の子どもの半分ぐらいが通っています。ビジネス規模はそれほど大きくなくても、海外の先端の教育を受ける子どもの割合が多いことは、長い目で見ると地域に大きなインパクトを与えるかもしれません。

その方が西粟倉で起業されたのは、旦那さんが当社に転職されたことがきっかけです。彼の前職は大手企業の環境部門です。大きな会社ではできないことも小さい組織でならできると感じて、当社に来られたのだと思います。すてきな方が、いろいろなルートでこの村に来てくださっています。

――大企業の方が小さな山村に来るというのが興味深いです。どうすれば、地域に人が来てくれるようになるのでしょう?

牧:今、地方での起業を応援する事業は、レッドオーシャン化している気がするんです。だから「やりたいことやってください、応援しますよ」だけでは来てくれません。では、人は何に惹かれるのかというと、人なんです。良い縁を集める起点になる人は、地域に何人かいます。そうした方々に、何を大事にしたいのか、どのように生きていきたいのかといった思いを丁寧に聞いて、それが周りに伝わるように発信する作業は一番大事だと思っています。僕たちの場合は、そういったハブになる人をしっかり取材して、年間10本ぐらいの記事を自社メディアにコツコツとアップしていきました。

今、ご縁があってローカルベンチャースクールの企画運営をさせてもらっている北海道厚真町には、羊をとても愛して大切に育てている方がおられます。まったく商売気がなくて、ただただ、羊に対する愛情が深いんです(笑)。その方の記事を公開したところ、彼の思いを引き継いで羊に関わる事業をしたい、という人が毎年1人、2人現れています。

彼に限らず、誰にでも物語はあるので、できるならば全員取材したい。ただ、やみくもに取材するのではなく、今、取り上げると面白い人とか、今、人が動きやすいテーマを紹介した方がいいかな、と思っています。その目利きが難しいんですけど。

――人が動きやすいテーマとは?

牧:来年、再来年に動きが加速しそうなテーマは、「生物多様性」です。国際的に急激に議論が高まっているので、大企業も意識せざるを得ない状況になると予想しています。

ただ、現状は、「生物多様性」の概念は理解できるけど、それがどういうものなのか見たことのある人は少ない。だから、生物多様性を体感できるような事業を早めに仕掛けておくとスポットが当たりやすく、ビジネスも生まれやすいと考えています。

僕たちもそこに早めに取り組んで、生物多様性に関心のある人たちを村に呼び寄せるための“のろし”を上げたいと思っています。まだ、ちゃんと火がついていない状態、つまり結果が出ていなくても、大きな火が起きているように見せるのは、人を呼び寄せるのに結構大事だと思っています。

一歩進むと、一歩先が見える。同じやり方では、未来は作れない

――この十数年で、いろいろな人がいろいろな会社を立ち上げて、西粟倉村は目に見えて変わったと思います。村の人たちはどう感じておられるのでしょう?

牧:最初は、村は合併しないし、移住者がどんどん入ってきてよくわからないことをする、と違和感があったと思います。でも今は、違和感を持つ人が少なくなっているのかな。喉元にできものができても、慢性化すると「そんなもんだ」と慣れてしまうじゃないですか。その感覚に似ていると思います。

村の人たちと話をすると、「何をしているのかわからない」と言われることがあります。でも、「よくわからない」ことを、村の人たちはそれほど気にしていない。ある方は「近所の空き家に誰かが住み始めた。誰が住んでいるかわからないけど、空き家じゃなくなってよかった」とおっしゃっていました。移住者が、あいさつもなくそばに住み始めることをイヤだと思っておられないんです。移住者や移住者がすることを気にしない村民性は、全国的にもすごく珍しいようです。全国の村民の意識調査をされているある研究者も、「西粟倉村の人たちは寛容ですね」と驚かれていました。

でも、寛容である以上に、「あの人たち、辛抱強くがんばっているな」と、認めていただいているのかな、と思います。10年以上、なんとか潰れることなく会社を続けているそのプロセス自体を、肯定的にとらえていただいているように感じます。

それはこの十数年で、村に子どもが増えて活気が出てきたからだと思います。近隣の自治体は、15歳未満の子どもが80人ほど。それに対して、西粟倉村の子どもはこの十数年で着実に増え続けていて、160人ぐらいになっています。また、昔から西粟倉村で土木建築業を営んでこられた方と、移住してきたデザイナーさんとのコラボによる新商品・新サービスが生まれようとしています。村が変わっていく様子を見て、村の人たちは「最初は違和感があったけど、それで良かったんだよね」と感じてくださっているように思います。

――この10年で、村にとってかけがえのない存在になっているんですね。

牧:そうだとうれしいのですが、これからも同じやり方を続けてしまうと、未来はないと思うんです。社員にも「人が簡単に理解できないようなことに挑戦しないと、先はないぞ」と言っています。常にチャレンジして変わり続ける力がないと、誰も想像したことのない未来を作ることはできない。今は、そろそろ次のフェーズに入る時期だと思っています。

――次のフェーズとは?

牧:今、西粟倉村には50社強のローカルベンチャーがあり、森を中心にもの作りをする会社もたくさんあります。コンテンツが溜まった状態の現在のフェーズは、車でいうと、いわばエンジンを暖める“暖気フェーズ”です。次に目指すのは、溜まったコンテンツをプログラム化して、生物多様性関連の事業を結びつけて産業を作る“産業化フェーズ”です。地域の経済を回すために、付加価値の高いサービスを創り出して、人に来ていただける場所にしたいと考えています。

――例えば、どのようなサービスですか?

牧:森から始まった取り組みによって、西粟倉村の生態系は豊かになりつつあります。その生態系に触れる体験と、お客様の心身の健康をつなげるサービスは可能性があると考えています。僕がここに来た頃は、サービスを提供するのに十分な材料がありませんでした。でもその後、面白い人がたくさん集まってきてくれたおかげで、実現できる段階に入ったのかなと思っています。

最初は“のろし”で十分でした。でも、人が集まって面白い会社がたくさんできて暖まってきた今は、“のろし”のままではダメなんです。産業をしっかり育てて、煙ではなく、ちゃんとした炎にしなければならないと思っています。

――そのために、次は何を?

牧:暖気フェーズから産業化フェーズへ明確に切り替えるために、コンテンツを溜める役割を担ったローカルベンチャースクールは西粟倉ではいったん終了しました。今は、外部の専門家や企業の助けを借りながら、産業を作っていく新しいプログラムを展開しています。

また、7カ所ぐらいに支社を構えて、いろいろな地域で使える地方創生の研究を進めたいと思っています。今、当社の拠点は、西粟倉村と滋賀県高島市、北海道厚真町にあり、2023年4月からは鹿児島錦江町にもオフィスを構え、ベンチャー支援を始めました。地理条件や背景が異なる地域に拠点を置いて研究を行うのは、7拠点ぐらいがちょうどいいと思っています。各社代表が顔を合わせて議論しやすいでしょうし、励まし合いながら一緒に成長でき、研究も加速していくと期待しています。

――起業されたとき、このような未来を思い描いていましたか?

牧:起業したとき、僕の未来の解像度はそれほど高くなく、少し進むと一歩先が見える、という感じでここまできました。だから、地域の所得が上がるとか子どもの数が増えるとか、雇用が生まれるとか、実現できたらいいなとは思っていました。でも、ベンチャー企業を50社誕生させるぞ、と意気込んでやってきたわけではありません。ただ、50社の売上総額が20億円ぐらいになったとき、産業化ができそうだと思ったし、その道筋も見えてきました。本当に、一歩一歩です。

毎年、西粟倉村では十数人の子どもが生まれていますが、毎年その数の新卒採用があるかというと、ありません。今後は産業化を進めて地域の経済を育てて、大学進学などで村を出た子どもたちが、Uターンしてくれたらいいなと思っています。

目指しているのは、若い人たちがいきいきと働き、税金を納められる地域を作ること。そして、村の人たちに「あのとき、合併せずに森を守るという選択をしてよかったね」と思ってもらえたらうれしいです。(了)

牧 大介さん 
株式会社エーゼログループ代表取締役CEO

京都府出身。京都大学大学院(森林生態学研究室)修了後、民間シンクタンクを経て、2005年「アミタ持続可能経済研究所」設立に参画し、所長に就任。FSC認証制度を活用した林業経営改善をはじめ、農山漁村での新規事業を多数プロデュース。2009年、「株式会社西粟倉・森の学校」を設立。2015年に「エーゼロ株式会社」を設立、2023年には西粟倉・森の学校」と合併させ「株式会社エーゼログループ」を発足。

撮影/楠本 涼
執筆/井本 旬子
編集/佐藤 友美
撮影協力/BASE101%‐NISHIAWAKURA‐
岡山県英田郡西粟倉村長尾461-1

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