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嫌いだけど大好きです。なぜ「下げて上げる」のかについての考察【連載・欲深くてすみません。/第5回】

元編集者、独立して丸7年のライターちえみが、書くたびに生まれる迷いや惑い、日々のライター仕事で直面している課題を取り上げ、しつこく考える連載。今日は文章を読んだり書いたりするとき、つい引っかかる表現について悩んでいます。

この世には「わざわざ言わなくてもいいこと」というものがある。

先日、初対面の人に文章を褒められた。「ちえみさんの書いた記事を読みました。あれ、すごくいいですね」。わあ、ありがとうございます。嬉しい。その方はこう続ける。

「ちえみさんって見た目は怖くておっかないけど、文章は優しいですよね」

……文章は? 文章「は」???

えっと前半が気になりすぎて後半の褒め言葉が頭に入ってこない。私、おっかないですか? あー思い当たることはあるわ。ごめんごめん。何か考え始めると、自動的に眉間にしわが寄ってしまう体質なんです。睨んでいるわけじゃないのよ。ところで私、なんで今、初対面の人にディスられているのですか。ひょっとしたら喧嘩を売られている?

そう疑って相手をまじまじと見ると、人の良さそうなお顔でニコニコと笑っている。どうやら私を否定したつもりは毛頭ないらしい。

なんだかなあ。

純粋に、文章を読んだ感想を伝えたいと思ってくださったのなら「見た目は怖くておっかないけど」なんて、わざわざ言う必要あるでしょうかね。「スタイルは悪いけど足は長いね」「踊るのは下手だけど喋るのはうまいね」。褒めてるのかな、これ。びみょ〜に嬉しくないのは私だけ?

もやもやした気持ちを抱えながら電車に乗り、吊り革を掴んだ瞬間「あれと一緒だ」と思った。

文章の「下げて上げる」問題である。

雑誌やウェブの記事、個人のブログを読んでいると、たまにこんな一文が出てくる。

「〇〇さん(映画監督)の作品は嫌いなんですけど、この最新作だけは面白かったです」

「〇〇系のアイドルにまったく興味ないし、ファンの人たちの盛り上がりにも引いちゃう私なんですが、〇〇さんの歌唱力には感動しました」

「〇〇系漫画(特定のジャンル)が全然理解できないんだけど、この作品は最後まで読めた」

私はこういう表現にいちいち違和感を覚えて、読む目が止まってしまう。批判的な表現そのものはいいのだ。嫌いだと思うのも、興味を持たないのもそれぞれの評価や判断であり、その好き嫌いを書くのは(誹謗中傷でない限り)自由だ。

私の違和感は、これらの文が、どれも対象に対して批判する意図はなく、むしろ対象のことを称え、素晴らしいと書こうとしているところにある。嫌い、まったく興味ない、理解できない「けれど、これは例外です」と安易な比較を用いて、対象を褒めたつもりになって果たしていいのかね!

――と、人が書いた文章について偉そうに言う私だが、自分が書き手になると、この「一度対象を下げてから上げる」表現を無意識に繰り出していることがある。なんの悪気もなく、対象を否定するつもりも毛頭なく。人から指摘されてガーンと落ち込む。

神様。一体なぜ、わたくしめは、ここまで書いておきながら、自ら軽々しく「下げてから上げる」表現を使ってしまうのでしょうか。

一つ目は、後半の「上げる」部分を強調するのに楽だからである。

もともと逆接による表現は、「〜けれど」「〜しかし」「〜だが」の後にくる内容を強調する効果がある。「監督のこの作品が好きです」と言うよりは「これまでの作品は理解できなかった『けれど』、この作品は好きです」と逆接を用いて表現したほうが、他の作品に比べて今回の作品がどれほど自分にとって特別なのか、強調しやすい。

二つ目は、書き手のポジションを明確にするためである。

文章は「誰が語るか」が重要である。たまたま通りがかった人が「これは素晴らしい」と言うのか、そのジャンルに精通した人が「これは素晴らしい」と言うのかでは、その言葉が持つ意味、重み、伝わり方がまったく変わる。

著名人や専門家の発言のほうが言葉に重みがある、伝わりやすいという意味ではない。たとえば最近読んだ文章に、こんな一文があった。

「私は活字が苦手で、本を1冊読むのも難しいのですが、〇〇さん(作家)の書いた本はすらすら読めました」

「活字が苦手で、本を1冊読むのも難しい」という書き手の立場が明確になることで、〇〇さんの本がどれほど読みやすいかが伝わってくる。これが、毎月30冊読む読書家の発言であれば、違う意味合いが生まれるだろう。

上の例は誰かを下げることもなく、ただ自分がどういう立場にあるのかを冷静に表現したものだが、これを「私は普段本を読まなくて、書籍というもの自体オワコンだと思っているんですが」と書き始めると話が変わる。私は本が好きなので、こうして大した意味なく、軽々しく本というものを下げられると、後半にどれほど良いことが書かれていたとしてもちょっと腹が立つ。

文章を書いてみるとよくわかる。言いたいことを強調したり、書き手である自分の立場を明確にしたりするために、何かを否定し対象を下げるのは簡単なのである。ただし、その代償として失うものは大きい。否定された人や団体、それを応援している人たちに不快な思いをさせるばかりか、肝心の言いたいことまで読んでもらえない可能性すらある。

繰り返すが、何かを否定したり批判したりすること自体が悪いというわけではない。「〇〇というアーティストは嫌いだが、この作品は好きだ」と書くなら、なぜそのアーティストのことが嫌いなのか、覚悟を決めてしっかり書けよと、私は(私に)思う。もし、批判する意図や覚悟はまったくなくて、ただ「この作品が好きだ」と言いたいだけなら、安易な逆接やポジション取りは選ばず、他の表現方法で伝わるように書けよと、私は(私に)思う。

ちなみに、お酒を飲みながらライター仲間とこの話をしたとき「下げる対象が自分、つまり『自虐』なら、読者を不快にさせないのか」という話になった。これまた難しい問題だ。自虐をするには、ものすごく高度な技術が求められると思うからである。

たとえば「私なんてなんのしがらみもないフリーランスの働き方を楽しんでいるだけなのに、〇〇さんは組織の中で立派にサバイブしていてすごい」と言った場合、私だけではなくフリーランスで働いている人たち、誇りあるその働き方も巻き込んで、一緒くたに下げてしまう恐れがある。「独身の私が〜」「田舎者の私が〜」なども同様だが、書き手本人はあくまでも自分自身がへりくだっているつもりなので、他の人たちの立場を下げていることに気づけない場合も多い。

下げなくていいものをわざわざ下げず、何かを見下すことも、不必要にへりくだることもなく、素晴らしいものに対して、ただ素晴らしいと正々堂々書くことから逃げない、サウイフカキテニ、ワタシハナリタイ。それが難しいんだけど。

文/塚田 智恵美

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