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産んでも産まなくても産めなくても、私にはきっと希望しかない。『わっしょい!妊婦』

不妊治療をしているのに、子どもを持つことが怖い。

決まった時間にせっせと薬を飲み、痛みに悶えながら筋肉注射を打ち、「今月こそは、生理がこないはずだ」と願い続けているくせに、怖い。行動と気持ちが矛盾しているが、漠然とした不安と恐れは自分の影のようにどこまでもついてくる。

ベッドに入るとスマホで「#妊活」「#出産」「#子育て」のハッシュタグのついたレポートやマンガを探し出し、朝になるまで延々と画面をスクロールし続けている。いつものようにSNSにダイブした時、タイムラインのなかに『わっしょい!妊婦』の文字を見つけた。

SNSで聞きかじった情報に溺れて窒息しそうだった私には、「わっしょい!」の単語が輝いて見える。さながら、渡りに船、溺れた時に掴む藁、天から垂れたひとすじの蜘蛛の糸のようだ。

頼む。「妊娠も出産も『希望』だ」と言ってくれ。

筆者は妊婦というフィルターを通して、世の中の様々な事象や人々にタッチしていく。

食べづわりの話や、授乳のために乳首をデラウェアにするエピソードが、次から次に語られる。将来、それらが自分に降りかかるかもしれない身としては、そんな話、聞いてないんですけどー! と絶叫したくもなったが、つい笑いが止まらなくなる。

妊娠にいたる過程から出産に至るまで首尾一貫して、今まで見聞きしてきたどんな妊娠・出産の話よりも、隅々まで血が通っているようなぬくもりと、血生臭さがあった。今まで平面でつるんとしていた妊娠・出産とそれにまつわる世の中のエトセトラが、4Dになり、奥行きを持って立ち上がってくる。

私が漠然と持っていた怖さや不安は全部、本の中で言葉になっていた。

つわりも出産も怖いけれど、何よりも私が怖かったのは、崇高な母親像を押し付けられることだった。

私よりも随分年上の女性から、一人で育児に奮闘し続けた結果、「子供を全く可愛いと思えなくなってしまう瞬間があった」と言う話を聞いたことがある。途方もない期間寝てなくても、ゆっくりトイレに行く時間がないくらい忙しくても、「一切合切ひっくるめて、あなたの愛の力でどうにかしてください。それでもって、いつも幸せという顔をしていてください」という価値観を押し付けられるなんて、怖いと思ってしまった。「母親なのに、なんてことを言うんだ」なんて、全く思えなかった。

漠然とした「恐れ」が因数分解できた瞬間、固結びになっていた心がシュルっと解けるのがわかった。そして不安や恐れを大きく上回る救いも、本の中にちゃんとあった。

小野さんはマタニティマークを見て電車やバスで席を譲ってくれる人や、素敵な助産師さんに出会ったし、(予想外だったが)願い通り、沢山の人に囲まれて出産をした。

子と過ごす時間の尊さを教えてくれ、私が不妊治療をはじめるきっかけになった、佐藤友美さん(さとゆみさん)の『ママはキミと一緒にオトナになる』(小学館)にも、そんな話があった。さとゆみさんが仕事のことで落ち込んでいた夜には、息子さんと一緒にハロウィンを楽しんでくれた美容師さんたちがいたというエピソードが語られている。

あれ、産むときも育てるときも、ひとりじゃないじゃん。

ワハハと一緒に笑って、背中を押してくれるような言葉をくれた小野さん。柔らかいブランケットでくるんで、ぎゅっと抱きしめるような言葉をくれたさとゆみさん。励まし方は違ったけど、大好きな作家さんたちが同じことを言っている。家族以外にも、この世に生まれた命との付き合いを分かち合ってくれる人は、意外といるのかもしれない。妊婦と名がついているけれど、ここに書いてあることは、生まれてきた命を囲む、生きとし生けるもの全員の話だった。

私は出産や育児を「怖い」と思い込むことで、子供ができなかったときのための予防線を張ってきたんだと思う。大丈夫だよ、という先輩たちの言葉でそれを取っ払ってみたら、心の一番深いところから「子供を産んでみたい」という気持ちがこんこんと湧いてきた。

治療は続く。明日も通院だ。私もいつか生まれたてのピカピカの命を抱いて、頭のてっぺんからつま先まで肌が粟立つほどの愛を感じられる日がくるのだろうか。

もしそれが叶わなかったとしても、私というピースがカチッとはまる場所がどこかにあることも予感している。それは、同じ経験をした人と気持ちを分かち合うことかもしれないし、友人の子を抱きしめることかもしれないし、他人のもとに生まれてきた子の命を「わっしょい!」と祝福し、尊み、慈しむことのできる世の中を作ることかもしれない。どちらの道に進むことになっても、希望を持って生きていけると信じたい。

文/市川 みさき

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