
あなたにとっての「普通」ってなんですか?映画『大きな家』が切り取った、児童養護施設の日常
「俺の普通って、他の人の普通と違うみたいだから」。夕暮れの公園で高校2年生の男の子はそう言った。
ドキュメンタリー映画『大きな家』を観た。約1年半、東京のある児童養護施設の日常を記録した映画だ。解説的なナレーションもなければ、BGMもほとんどない。
撮影班は子どもたちの日常に溶け込むことを何よりも重視した。1年間を「準備期間」として、カメラを持ち込まずに「その場にいても浮かない」存在として馴染むところから始めたという。この事実だけでも、いかに丁寧に施設の日常に迫ろうとしたかが伝わってくる。
そして撮影開始後も、「撮れ高」を気にせず、ゆっくりじっくりというスタンスを貫いた。そうした撮影班の姿勢が功を奏したのか、カメラは子どもたちの自然な姿を捉えることに成功している。生活音や、つぶやくような独り言、ぼんやりとした表情など、確かな日常の積み重ねを丁寧に拾い集めた映画だった。
児童養護施設と聞いて、想像する風景は、どのようなものだろうか。私は恥ずかしながら、そんなにポジティブな印象を持っていなかった。いや、ポジティブな印象を持っていないことにすら気付いていなかったというか。
『大きな家』を観て、初めて知った児童養護施設のリアルに、私は少なからず驚いた。驚いた自分を認識して、私自身がポジティブな印象を持っていなかったことに気付いた。
これまで、私は児童養護施設といえば、広い部屋でみんな一緒に生活をし、個人のスペースなどはないのではないかと思っていた。職員も複数名いて、みんなでシフトを組み、ケアしているのではないかと想像していた。
『大きな家』で映し出された児童養護施設の日常は、その想像とは、全然違った。
100人を超える子どもたちが生活する施設でありながら、食事や生活をする単位は基本的に6人で1ユニットとなっている。リビングルームがあり、個室があり、そこに職員の方が担当として2名配属されている。もちろん、事務方として多くの人が働いていると思うのだが、子どもと接する職員はユニットごとに固定されている。だからその2名の職員は、まるで親のような存在だし、子どもたちとは家族のような関係性なのだ。
綺麗に整理され、掃除された居住空間。未就学児の子どもたちは集団で過ごすが、小学生以上の子どもには個室もある。ベッドと机と、そして洋服ダンス。私の実家の個室と同じか、それよりも広いくらいだ。
映し出された日常は、丁寧で、優しかった。
基本的な家事は職員が担当する。洗濯機に入れる前に、汚れてしまった白い靴下を、今は懐かしい洗濯板で洗う。乾いた洗濯物を畳みながら、食事を作りながら、子どもたちの話を聞く。小競り合いがおきると、たしなめる。
部活の試合の日には、まだ他の子が起きていない時間から、お弁当を手作りし、「見に行けるのは10時半になるから、それまでに試合が始まったら、勝っとけよ」と声をかける。
誕生日にはホールのケーキに年齢数のロウソク。吹き消す姿を動画に収める。
卒業式の日は、登校前から職員が号泣。子どもから「恥ずかしいから学校では泣かないで」と言われる。夜は“お祝い”にすき焼きを作っていた。
普通の家族、普通の家庭と何が違うのだろう。「普通」って何?
でも。子どもたちは葛藤している。
映画に出てくる複数の子どもたちは言う。
「血が繋がっていないのに、家族みたいとか言わないでほしい」
「家族じゃないと思う。一緒に住む、他人」と。
これまで、私は誰かとの「血の繋がり」を意識したことがあるだろうか。ほとんどないように思う。少なくとも、日常では。それは、私に「血のつながった家族」が当たり前のようにいるからなのかもしれない。
でも、彼、彼女たちは、強烈に意識している。それは、彼らが日常の中で出くわす、街にある言葉、友達や先生とのやりとり、季節のイベントなどを通じて「あなたは他の子と違う」と突きつけられているからかもしれない。じわじわと少しずつ、でも確実に「私は親と暮らしていない」という事実を噛み締めているように感じた。
映画の中で、児童養護施設のイベントの一環として、高校生の子どもたちがネパールに向かう様子が記録されていた。行先は、ネパールの児童養護施設。自分も日本の養護施設で育ったんだと自己紹介する、子どもたち。
ネパールの少女は「ここにいる人はみんな家族みたいなもの」と言う。「血の繋がりがないのに、家族とは言えない」と言っていた日本の少女は、なんとも言えない表情をしていた。
主語が大きくなってしまうけれど、日本では子育てを「家庭」「家族」という単位で行うことが多いように思う。「地域で」「みんなで」子どもを育てるという考え方は比較的薄く、それぞれの家庭の中で完結すべき、とされている範囲が広い。もちろん、だからこその自由さはあるのかもしれないけれど。
長女を出産した後、私は気分が落ち込んでいた。子育てが苦痛で、娘を可愛いと思えなくて、そしてそんなふうに思っている自分が嫌で。そんな負のループに陥っていた。娘を可愛いと思えたのは、保育園に預けてからだった。慣らし保育の初日、3時間ほど預けてから娘を迎えに行ったとき、保育士さんが「今日、少しだけつかまり立ちしたんですよ! お家でも、もうつかまり立ち、しています?」と我が子のように小さな成長を発見し、熱量高く報告してくれた。保育園の先生が、子育ての“同志”のように感じられて、ありがたくて涙が出た。
私は普段、どちらかというと「私は私として、個人の自由を尊重してほしい」と思っているため、集団行動が実は苦手だ。でも、子育て期においては「昔ながらの団地みたいなところで子育てしたい……」と思っていた。自分だけじゃなくて、地域で子育てしたいと強く思った。
その背景には、「子どもは、多くの大人に見守られて育った方が、良いのではないか」という想いがあったからだ。学齢期のときの「普通」は学校から提示される。「こうあるべき」と強制されることも。でも、大人になると、それを逸脱している人が意外と多くいることに気付く。だから子ども時代こそ、いろんな価値観、考え方を持ち、それぞれの人生を歩んできた大人に触れて育ってほしいと思っていた。
映画の終盤に出てきた男の子は、施設を出て、大学の寮で暮らしていた。施設を出たからこそなのだろうか。休暇に“里帰り”した彼は言う。
「ここは僕の実家ですね。(職員の人は)家族です」と。
施設にいる間、「なぜ私はここにいるのだろう」と葛藤し、血のつながりを求めた子どもも、外に出るとまた違った世界が見えてくるのかもしれない。
『大きな家』は、子どもたちのプライバシーに配慮して、映画館でしか見られない。
映画館の廊下に貼ってあった、『大きな家』の企画・プロデュースをした、モデルで俳優の斎藤工さんの言葉が胸に刺さる。「配信で映画を見るようになると世界が近くなったように感じるかもしれないけど、僕はむしろ、乖離(かいり)していく流れを感じます」。
映画館に足を運んで、意思を持って『大きな家』を観る。そして、私たちは何を知って、何を感じるのか。
印象的だったのは、18歳になった女の子が独り立ちのために施設から出る場面だ。その子に対して、施設長は大きな声で言った。「困ったときに、周りの人に(助けてと)言えることが自立なのよ!」
映画の中で、自分のことを”普通じゃない”と感じている子どもたちは、少しどこか遠慮がちで、周りに助けを求めることを諦めているようにも見えた。だからこそ私は、彼や彼女たちが困ったときに「困った」と言いやすい大人でありたいと思った。「困った」と言っていい空気を作りたい。そのためにも、自分が経験したり、直接見たわけではないものを、安易に判断しないようにしたい。
『大きな家』は私にとって、大きく感情を揺さぶられるものではなくて、時間の経過とともにじわじわと考えを深める、そんな映画だった。今もまだ、私にとっての普通ってなにかな、何ができるかな、と考えている。
文/仲 真穂
映画『大きな家』公式ホームページはこちら

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