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10歳で世界の扉を叩き、16歳でアルゼンチンへ。世界的バンドネオン演奏家・三浦一馬さん

バンドネオンという楽器を見たことがある人は、どれくらいいるだろう。見た目はアコーディオンに似ている。しかし、その音色はアコーディオンよりどこか哀愁が漂い、繊細だ。第二次大戦後に生産がストップし、後に復刻版が生産されるものの、製作された当初の音を出すモデルは希少だ。

そのバンドネオンに惚れ込み、若いうちから演奏家として活動する人がいる。三浦一馬さん。2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け 紀行』で流れていた音楽の演奏者といえば、その曲を思い出す人も多いかもしれない。

楽器の数も演奏家の人数も少なくなってきたバンドネオン。世界有数のバンドネオン奏者として知られる三浦一馬さんに、その魅力、奏者としてのこれからを聞いた。

聞き手/hanata.jp

バンドネオンは初めて触れた「大人の音」だった

――はじめて三浦さんのコンサートに行った時、音が大変繊細である反面、激しさも同居していて、表現の幅の広さに驚きました。バンドネオンは演奏がとても難しい上に、開発当初から技術を伝えてきた職人たちが亡くなっていて、現存する楽器数がかなり少ないと聞きました。どんな楽器なのか、改めて教えてください。

三浦:バンドネオンは、左手側に33個、右手側に38個、合計71個のボタンがついていて、このボタンを押すことで音を鳴らし分けます。実はこのボタンが音階順には並んでいません。演奏を難しくしている理由の一つがここなのですが、ドレミファソラシドだけでもこんなにバラバラに配置されています。

――コンサートでもものすごいスピードで音色を切り替えていらっしゃいましたね。

三浦:楽器全体を引っ張ったり縮めたりして空気を送り、それによって音が鳴る仕組みはアコーディオンと同じです。ですが、同じボタンを押していても、引っ張った時と縮めた時で音が変わるのです。しかも、その変わり方にも規則性が無いので、ボタンごとに引っ張った時と縮めた時の音を耳で覚えなければいけません。

音色もアコーディオンとは違う。アコーディオンは、ベネチアのゴンドラの上で弾かれたり、フランスのシャンソンで弾かれたりします。陰と陽だったら陽を感じる。バンドネオンはどちらかというと、もの哀しさを感じさせます。陰の部分や影の部分を感じるとよく言われますし、自分でもそう感じます。

重さも約7キロほどある重い楽器です。普段は膝の上に乗せた状態で演奏するのですが、たまにアンコールで立って演奏する時は腕も脚もパンパンになります。あれは本当にもう、1曲が限界ですね。過去の演奏家の中には生涯立ち弾きの方もいましたけど、よくあんな事ができるなと思います。

――ご両親も音楽家だと聞きました。これだけ世の中に色々な楽器がある中で、なぜそんなに演奏が難しい楽器を選び、プロとして活動されているのですか。

三浦:最初にバンドネオンという楽器と出会ったのは、10歳の頃、たしか小学校4年生の時でした。

当時『N響アワー』というNHKの番組があって、たまたま家族で夕食後にその番組を見ていたんです。今でも鮮明に覚えているのですが、画面全体に何やらボタンのようなものが並んでいて。「え? なんだろう」と思った瞬間に、カメラがズームアウトして、不思議な楽器を映し出しました。それを見た瞬間に釘付けになってしまったんです。どストライク。一瞬で自分がこの楽器を好きだということを確信しました。最初は動けないくらいの衝撃でその映像に見入っていたのですが、はっと思い立って慌てて自分の部屋に行き、ビデオテープを持ってきて、録画ボタンを押しました。当時はまだVHSでしたよね。番組が終わった直後から巻き戻して何度も見て、翌日からもテレビを占領してずっと見ていました。

――なぜそんなに惹かれたのでしょう?

三浦:その映像が映った時に、何やら大人っぽい格好いい音楽が流れていたんです。多分、僕はどこかませた少年だったと思うんですけれど、その自分が漠然と、「大人ってかっこいいな」と思う憧れのような世界。それを、初めて具体的に示してくれたのが、その時聴いた音楽とバンドネオンだったのでしょうね。

――その時の番組でかかっていた曲は覚えていますか?

三浦:『オブリヴィオン』という曲でした。その後もテープが擦り切れるほどずっと繰り返し聴きました。

インストアライブで直談判

――小学4年生の時にテレビでバンドネオンに出合い、その後、演奏するようになったのはいつですか。

三浦:その半年後のことです。毎日毎日そのビデオをくり返し見ている僕を見て、親がバンドネオンのコンサートがあるみたいだよと教えてくれたのです。場所は、銀座のヤマハ。現在の場所ではなくて移転する前の古い方ですが、いわゆるインストアライブですね。

最前列の席を陣取って、初めて生のバンドネオンの演奏を聴いたのですが、やっぱりすごく好きだと思いました。だから終了後のサイン会で列の先頭に並んで、サインしてもらいながら「バンドネオンやりたいんです。教えてください!」と言いました。その方も、突然のことでびっくりされて。でも、「ちょっとサイン会終わるまで待ってて」って言われ、端っこで待っていたら、連絡先を交換してくださいまして。その2、3日後にダンボールとテープでぐるぐる巻きになったバンドネオンが自宅に届くことになるんです。

――すごい!

三浦:逆の立場だったら、今の自分が果たしてそれをできるかというと、なかなか難しいですよね。その方が、僕の最初の師匠、小松亮太先生です。

梱包をといてバンドネオンを手にした時、ぞわっとしました。画面で見ていると全然わからなかったのですが、やっぱり重いんですよね。10歳の子どもだから、特に重くて。ずしっとした重みを感じて感激したのですが、同時に、これは大変なことになっちゃったとも思いました。こんな貴重なものを、今、自分が手にしている。絶対壊しちゃいけないし、弾きたいんだけど、弾いたら壊してしまいそうだし、でも嬉しいし……。すごく複雑な感情でした。

最初に左の低い音を鳴らしてみました。なぜか右ではなくて左から鳴らしたんですよね。音が低いから体に伝わる振動がすごくて。もわ~んって体に響く。その時の、ぞくぞくぞくという、あの感覚は今でも覚えてますね。

――それから小松先生にレッスンしてもらうようになったのですか?

三浦:それがそうではないのです。というのも、最初にお話したようにバンドネオンという楽器が特殊でして。手元にたくさんボタンが並んでいるのですが、そのボタンが、全然規則的に並んでいないんです。押すと引くでも音が変わるし、ランダムだらけ。これを覚えないことにはレッスンも何も始まらない。だから「まずは音階を覚えてきてね」ということでした。

――では、このボタンはこの音だよといった解説書とともに楽器がきたのですか? 

三浦:いえ、楽器だけでした。だからもう本当に手探り。まずは、ドを探すミッション。一つずつ鳴らして、あ、これがドだと覚えたら、次はレを探して。楽器を引っ張りながらやっと「ドレミファソラシド」を出せるようになったとしても、同じところを押しながら楽器を縮めると全然違う音が鳴るので、引っ張った時の音と押した時の音と、全部覚えなくてはいけない。毎日、ドを探せミッション、レを探せミッション。でも、当時は本当にそれが楽しくて、楽しくて。神経衰弱をやるような感覚なんです。引っ張りのドと押すのドでワンペア取れた! みたいな感じでゲーム感覚で覚えていきました。子どもの頃だったからできた話ですよね。楽しすぎて、朝も学校に行く前も5時くらいに起きて鳴らして、帰ってきてからも、もちろんやって。最初のレッスンをしてもらったのは、楽器が届いて3、4ヶ月後でした。レッスンに通うようになったら、片道2時間電車に乗って先生のところでレッスンして、終電で帰ってくるということをずっと続けていました。

――レッスンはどれくらいの頻度で行われましたか?

三浦:それが、レッスンも不規則で。小松先生はとても忙しい方だったので、週2回の時もあれば、1ヶ月に1回の時もありました。その時の先生のスケジュール次第。レッスン場所も先生のご自宅のこともあれば、公民館みたいなところの時もあれば、テレビ局の楽屋の時もあれば、下町のライブハウスの楽屋の時もあり。いろんなところでレッスンしましたね。

――まだ小学生ですよね。親御さんは毎回ついてきてくださったのですか?

三浦:一人で行っていました。

――それはすごいですね。

三浦:この頃のことは、なぜかレッスン前の記憶の方が残っているんですよ。レッスンが始まる前、ドキドキしながら、2、30分前には近くに着いているのに、ずっと時計を気にして。親が昔ながらの考えの人で、「何時にきなさいと言われたら、秒針が12になった瞬間にピンポンを押しなさい」と言われていたんですよね。なので、レッスン前も公園のベンチで楽器を出して練習したり、スーパーのイートインの端っこで、時計を気にしながら待ったりしていました。

プロデビューコンサートは自分で準備した

――いつ頃、バンドネオンの奏者として生計を立てたいと思うようになったのですか。

三浦:弾ける曲が増えてくると誰かに聞いて欲しくなっていくんです。ありがたいことに、小学生の時から地元の合唱団とか自分の学校の吹奏楽の演奏会とかでちょこちょこゲストで呼んでもらって弾く経験をさせてもらっていました。

ステージって、一度味わうと、やめられないんですよね。よく麻薬のようだという方がいますけど、一度あの高揚感を知ってしまうと、ずっとこういうことをしていたいと思ってしまって。アマチュアではない、プロでもない、よくわからない時に、ちょうど高校で進路希望の紙を書かされたんです。じゃあ自分の立ち位置をはっきりさせるためにもと、16歳の時に、プロデビューコンサートと銘打って、自分でチラシを作りコンサートをやりました。

――自分で準備をしたのですか?

三浦:はい。音楽評論家の先生たちもご招待して、チラシを作ったり、出欠者のチェックや、往復はがきのやりとりも自分でやって。自分で録音してジャケットを自分でデザインしたCDも作りました。もちろん、自分でデビューしたと言ったところで、プロではありません。でもそんながむしゃらにやってたことが、今のマネージャーの目に留まり、18歳で事務所に所属させてもらいました。ようやく演奏家として駆け出すことができたんです。

――学校に提出する進路書類には、プロになると書かれたのですか?

三浦:うーん……。最後の最後までうやむやにした記憶があります(笑)。デビューコンサートをやってからは、それまで以上にいろんなところで弾かせていただいたりもしたので、なんとかだましだまし、このまま逃げ切れないかなと思ってました。ただ、両親はいつも応援してくれていましたね。

突如、寿司屋で始まった巨匠への弟子入りオーディション

――その後、世界的な演奏家であるネストル・マルコーニさんに師事されますよね。いつごろですか?

三浦:16歳の時でした。バンドネオンを弾く人だったら一度は憧れる方だと思うのですが、私も子どもの頃からずっと憧れていました。なんとか直接マルコーニさんにお会いして、弟子入りをお願いできないかと考えていました。小松先生はもちろんのこと、周りのコミュニティでマルコーニさんの連絡先を知ってる人はいないかと片っ端から聞いたりして。本物かどうかも分からないアドレスにメールしてみたり、音楽評論の先生のブログに「バンドネオンをやってる三浦です。なんとか会いたいのですが、どうすればいいですか?」と書き込みをしてみたり。

だから、大分県で行われる国際的に大きな音楽祭にマルコーニさんが出演するという情報を得た時は、「これは行かないわけにはいかない」と。

確か高校に入った最初の春休みだったと思うんですけれども、チケットを買ってステージを見に行きました。それはもう、びっくりするわけです。こんなことがバンドネオンでできるの? と思いました。コンサートが終わった時は、みんなすぐ立ち上がって帰るけれど、放心状態でしばらく立てなかったのを覚えています。

――16歳にして、ものすごい行動力ですね。

三浦:とにかくなんとかして会いたかったのです。いろんな方からアドバイスをもらいました。「楽屋口で10秒でもいいから聴いてもらうぐらいの覚悟で行きなさい」といった叱咤激励ももらいました。でも、そのクラスの国際音楽祭になると、セキュリティがすごく厳しいんです。どこに行っても警備員がいるし。裏口で出待ちなんてできないんですよね。

ところが、その音楽祭の期間中、マルコーニさんが出る公演は欠かさず全部聞き、それ以外の演目もできる限り聞いていたら、「あの子、毎回来ているね」ということになったのでしょうね。音楽祭の関係者の方が可愛がってくださるようになって。

ある日、ホテルでもう寝ようかと思っていた時に、ケータイが鳴って。「今、○○というお寿司屋さんに、マルコーニさんいるよ」と、こっそり教えてくれたんです。

――すごい!

三浦:ああ、だんだんと思い出してきました。そうです。電話がかかってきたんです。それで慌ててフロントにタクシーを呼んでもらって寿司屋まで飛ばしてもらいました。

――16歳が(笑)。

三浦:寿司屋のドアをガラガラ開けると、カウンターのところに、いるんですよ! 僕にとって憧れの人が、アサヒビールのジョッキを持って! 片言のスペイン語で話しかけたから、マルコーニさんも驚いたと思います。でも、演奏を聴いて欲しいと伝えると、寿司屋の大将に「ちょっとテレビの音量下げて」と、ジェスチャーでお願いしてくれて。急に店内がシーンとなり、奥にいたお客さんたちも、なになに? となる状況でした。

いつか楽屋口でもいいから聴いてもらおうと思って練習していた、マルコーニさんが編曲をしたバンドネオンソロの古い曲を、ここぞとばかりに演奏しました。小学生の頃からいろんなステージで弾いてきて、緊張なんてしたことなかったのに、その時ばかりは足がガクガク震えて、弾けたもんじゃない。バンドネオンって蛇腹がついてるので、震えるとこう、ガチャガチャと音がするんですよ。緊張で脚がずーっとガクガクして蛇腹が鳴っていたのを覚えています。本当に怖かった。

――マルコーニさんは何と?

三浦:どうやら僕がマルコーニさんからバンドネオンを習いたいみたいだというのは伝わったようでした。お寿司屋さんで会った日の翌日に、今日はコンサートがあるけれど、昼なら時間あるから、ちょっと僕のホテルに来なさいと言ってくださって、個人レッスンを2時間ぐらいやってくださったんですよ。

――えー!

三浦:本番が控えているのに、持っていた楽譜を何枚かくださいました。未だに大事に使っている楽譜です。その上、もしアルゼンチンのブエノスアイレスに来る気があるのなら、レッスンしてあげるよと言われ、その年の夏、初めてアルゼンチンに行くことになるんです。

――展開が早いですね。マルコーニさんのレッスンはどんなものだったのですか?

三浦:レッスンでは、それまで経験したことがないことがいっぱいありました。単なる技術的なことだけではない、複合的なレッスン。バンドネオンをちゃんと弾けることは当たり前で、こう弾いた方がよりカッコよくなるとか、和音の積み方をちょっと変える方法とか、指の使い方の裏技みたいなことをいっぱい教えてもらったり。あとはもっとベーシックな話。両手をベルトに手を入れて弾きますけど、このベルトの締め付け加減のお話とか。それでかなり大幅にフォームチェンジもしました。

オーケストラと弾く時の話もしてもらいました。編曲や作曲にも近い話ですね。この楽器のオーケストレーションなら、バンドネオンはこうあるべきというような話。自分の譜面のとこだけじゃなく、もっと視野を広くすると自ずと音楽も変わってくるよ、という話とか。とにかく刺激的な経験でした。夏休みを使って行っていたので、最初は2週間ぐらいでしたね。

その間に先生が出るコンサートも見せてもらいました。言葉が不自由で、生活するだけでもいっぱいいっぱいだったのですが、次々と先生から新しい課題をもらって、2日後にはそれを弾いてみせなくてはならないから、大変でした。でもそれをやったからこそ、その翌年、初めて僕もオーケストラと共演することになるんです。先生のコンチェルト日本初演ということもあり、その経験は大きな転機になりましたね。

――アルゼンチンに行った時も、一人で?

三浦:最初に行った時は親がついてきてくれました。アルゼンチンって日本から一番遠い国で、片道30時間かかるんですよ。遠い国だし、治安のことも心配されて。でも2回目からは、一人で行ってました。

――巨匠のレッスンを受けると、やはり腕は上がるものなのですか?

三浦:上がりました上がりました。直角に上がってるんじゃないか? というぐらい。それだけではなくやはり、その音楽が生まれた土地にいるという実感でしょうか。ブエノスアイレスの夕暮れ時を歌っている曲などは、現地で夕焼けを見たときに「あー、これかー」と思いました。日本でいくら解説文を読んでいくら練習したところで、これはわからなかっただろうなと。

弾けない曲は、一番好きな曲

――現在、三浦さんはベテランと言われる域の奏者かと思います。日本では、どのくらいバンドネオン奏者の方がいらっしゃるんですか?

三浦:何をもってバンドネオン奏者かという定義も難しいですが、本当にバンドネオンだけで生計を立てている方は、5人もいないのではないでしょうか? 他のこともしながら公演もしていますという方も含めると、10人いるかどうか……。

――いま子どもが、三浦さんのようにバンドネオン奏者になりたいと思ったら、どうすればよいのですか? それ以前に、楽器はあるのでしょうか?

三浦:ちょっと弾いてみたいということであれば、バンドネオンの愛好会があったり、カフェを拠点に愛好家が集まるサークルもあるらしいです。楽器の状態の良し悪しは分かりませんが、オークションサイトなどでも見つけられたりしますね。

――後進を育てようと思われることは?

三浦:教えることについては、迷いもあります。そんな余裕がまだないということでもあるんですけれど。いずれは誰かに教えることも考えなきゃいけないかな、とも思っています。

――さきほど、ステージは麻薬みたいなものとおっしゃってましたが、その麻薬のような魅力は無くならないものなんですか?

三浦:何でもそうでしょうけれど、常習していたら効果がなくなる時ももちろんあります。毎日のようにコンサートをやってヘトヘトの時とか。だけどやっぱり、どれだけ疲れていても現実ではいろいろあっても、音楽って本当にいいよねと心から思っちゃうんですよ。多分、そういう感受性を持って生まれてきているのだと思います。だからやめられない。切っても切れないものがあるんでしょうね。

――定年の無い世界だと思うのですが、活動を終えるタイミングについて考えることはありますか?

三浦:その質問、今の僕にはまだ早くないですか(笑)。でも、考えることはありますね。もちろん、弾き続けられるなら弾き続けたいですし、一生現役という考え方もあるけれど、どこかで区切りをつける生き方もあるよな、と。生涯現役にこだわって衰えていくのもどうなのかなとも思うし、自分で引退を決める人の潔さというのもかっこいいと思う。自分の決断によって辞めるということですもんね。

ただ、僕、自分の一番好きな曲を人前で弾いたことがないんですよ。恐れ多すぎて。今までに弾いたことがない曲が、実はある。弾くとすれば、もう引退公演しかないかなーと思ったりはします。

――演奏の技術というのは、経験とともにずっと上がっていくものなのですか?

三浦:いやいやいや(笑)。こんなこと言ったら夢がないし、寂しいですけど、もうピークは過ぎたんじゃないですか?

――そうなんですか? 体力的にですか?

三浦:体力なのか、瞬発力なのか……。20代の時より指が回ってないんじゃないかなと思うことはときどきあります。でもその分、いろんな技術が代わりに上がったと思いたいですけど。これはいい意味のごまかし方も含めてですね。どう乗り越えていく? こんな時はどうする? という技術は、年を重ねるとともに上がっていると思います。今まで培ってきた技術や経験を、どのようにベストミックスさせて、求められているもののために最大限注ぐか。それは、歳をとったからこその醍醐味かもしれませんね。 (了)

三浦一馬(みうら・かずま)
1990年東京都生まれ。10歳の頃バンドネオンに出会い、小松亮太氏に師事する。16歳の頃、別府アルゲリッチ音楽祭でネストル・マルコーニと出会い、その年の夏に自作CDの売り上げから渡航費を捻出し、アルゼンチンに渡る。アルゼンチンでブエノスアイレスRC・OLIVOS受賞など、数々の賞歴を持つ。大河ドラマ『青天を衝け』の大河紀行で流れる楽曲で演奏。NHK『あさイチ』等テレビ出演。五重奏や自ら旗揚げした東京グランド・ソロイスツ等で、毎年多数の公演を行っている。

撮影/深山 徳幸
執筆/hanata.jp
編集/佐藤 友美

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