検索
SHARE

寄るな。力いっぱい引いて撮れ。私が書きたいものを知るために【連載・欲深くてすみません。/第13回】

元編集者、独立して丸7年のライターちえみが、書くたびに生まれる迷いや惑い、日々のライター仕事で直面している課題を取り上げ、しつこく考える連載。今日は、ささいな不調をきっかけに自分のこれからについて考えています。

著しくつらいというほどでもないが全力が出ない、といった程度の不調が秋頃に続き、医療機関を受診すると、乱れきった食生活を指摘された。「栄養の偏りが不調の原因かもしれません。一度詳しく検査して、足りない栄養素や食事の改善のアドバイスをもらってはどうですか」と医師が言う。せっかくなので、血液検査をもとにした管理栄養士さんの指導を受けてみることに。

これがとても為になった。自分の身体を材料に学ぶと、驚きや感激も大きいものだ。「ものすごく勉強になりました」と伝えると、カルテを見て私の職業を知っている管理栄養士さんが「良かったです。どんどん健康になって、ぜひ身体に必要な栄養について記事を書いてくださいね」と言う。

その「記事を書いてくださいね」という言葉がなんだかおかしくて、私は思わず笑ってしまった。早く自分の不調をなんとかしたいと切実な気持ちで来ているのだから記事を書くどころではないし、私が普段書いている記事とはまるで違うジャンルなので、そう簡単に書けるものではないのです。笑いながら「書く前に、自分が健康にならないと」と言うと、管理栄養士さんがたいへん真剣な顔でおっしゃった。

「塚田さんはすばらしい仕事をされていますよね。自分が知って役立ったことや、身をもって経験したことを、書くことで多くの人に伝えられるんでしょう。だから、塚田さんが不調を経験して、今日私に会い、そして健康になる意味ってすごく大きいと思うんです。慢性的な不調で苦しんでいるものの、この場所にまで辿りつかない人たちがたくさんいるんですから」

この言葉を聞いたとき、不思議な感覚を覚えた。先ほどまで「不調に苦しむ私」だけをアップで映した画面を見ていたのに、急にカメラ位置が後退して映像の画角が広がり、引きの画になったような。

それで気づいたのだが、不調の原因は食生活だけではなかったかもしれない。このごろの私は、ずいぶんと近視眼的に生きていたのではないか、と思い至ったのである。

フリーランスになってもうすぐ丸8年を迎える。ありがたいことに仕事は途切れず、特にこの1年間は次から次へとやってくる締切に追われる日々を過ごした。

原稿を書き納品してから、それが世にでるまでにはタイムラグがある。雑誌や書籍が発売になったり、記事が公開されたりする頃には、別の締切について考えていることが多い。もちろん反響や結果は気にするが、このような業界に入ってから、前職も合わせると13年目である。慣れもあって、編集者になりたての頃の新鮮な気持ちは、だんだんと失われていく。

さらにネットを見ると動画も含めて膨大な量のコンテンツがあって、どこもかしこも読者の関心を引くための演出が過剰である。そこに加わってまで、私が誰かの時間を奪わなければいけないんだっけ、と尻込みするような気持ちにもなる。

なんとなく、マンネリモード。加えて35歳になる年齢の節目もあってか、今年は「私はこれから、どうしたいのだろう」と考えることが多かった。

私は何をしたいのだろう。
私は何を書きたいのだろう。
私は。
私は。

何度目の思春期だよ。そう友人に笑われながらも、そして自分で自分を笑いながらも、ずっと鏡をのぞいているような時間を過ごした。

あるとき20代前半のライターさんを交えた飲み会で、「インタビューに行くときに、しないと決めていることはありますか」と聞かれた。酔った頭で真っ先に出てきたのが「相手が有名人だとしても『ファンです』とか『いつも見ています』のようなことを絶対に言わない」だった。

「どうして『ファンです』と言ってはいけないんですか?」とさらに聞かれた。言ってはいけない、と教えられたわけではないけれど……などとむにゃむにゃ返す。しかし、まっすぐな目で私を見つめている、自分より若いライターさんを前にして、なぜ私は自分でそれを禁止しているのだろうと改めて考えてみた。

「お金をもらって記事を書く人が、お金を出してその人を応援しているファンの方と同じ立場になってはいけない。インタビューの場に来られない人たちの代わりに、ファンの立場では聞けない話を聞き、書くのが仕事だから」

咄嗟に出てきた理由がこれだった。

感覚的なことだが、どんな有名人も、目の前の人が「ファンです」と言うと、少しだけ顔つきが変わるような気がする。嬉しいです、ありがとう、というのとは別に“与える側”モードになるというか、サービスする立場に変わるというか。でも、“与える・受け取る”の関係を超えなければ、読者が本当に聞きたい話は聞き出せない。

「特に長いことメディアで見てきた有名人を目の前にすると、そりゃ、あがるような気持ちにはなるけど、それでも歯を食いしばって『私には私の仕事があります。読者の代わりに、しっかり聞きたいことを聞きます』と、対等であるように背伸びする。それが、時間を割いてお話してくださる方への礼儀かなとも思って」

などと偉そうなことをのたまいながら、私は、自分が自分の仕事についてそのように考えていたのかと驚いていた。

「その場に行けない人たちに代わって、その人たちが聞けないことを聞いてくるんですね。すごい仕事ですね」

目を輝かせる若いライターさん。だけどそのときの私は「自分にも仕事の信念のようなものがあったんだな」と思うくらいで、自分が発した言葉の意味を、深くは理解できていなかった。

栄養診断を受けた帰り道、私はようやく「そうか、あのときの私もカメラ位置の話をしていたんだ」とわかった。

どアップの映像で見れば、ただ不調を抱えているだけの人間に見える。しかし、どんどん撮る位置を後退して画角を広げ、より広い景色を捉えた映像の隅に「不調で苦しんでいるものの、検査や栄養指導の場まで辿りつかない人」が映り込んだとき、ただの不調に見えていたものが、意義のある不調に変わる。

一対一で見れば有名人と自分だが、もっと引いて見て、別の他者の存在が目に入ったとき、その場で自分がなすべき役割がわかる。

見る場所を変えるだけで、見えるものが変わる。
何のためにそこにいくのか。何のために書くのか。
書いた先に、誰がいるのか。

だとしたら。

「私は何をしたいのだろう。私は何を書きたいのだろう」
その問いの答えは鏡の中にはない。私と他者、どちらをも映した俯瞰のカメラで捉えた映像を見たとき、鏡に見える自分の顔とは異なる自分を発見するのだろう。

そして、問いは変わりつつある。誰のために? どうやって?
世界を眺めているようで、よほど自分の内側を見つめる問いかけのような気がしている。

文/塚田 智恵美

【この記事もおすすめ】

writer