
流れる時間の中で私は私に誠実でいたいから。映画『TOKYOタクシー』
希望はなかった。でも、嘘もなかった。『TOKYOタクシー』。ひと言で説明すれば、倍賞千恵子さん演じる老婦人と、木村拓哉さん演じるタクシー運転手が、東京から目的地である葉山までタクシーに乗って会話して、降りる。ただそれだけ。大きな事件が起きるわけでも、明確な成長物語があるわけでもない。カタルシスらしいカタルシスもない。
映画を観終わった後に私が感じたのは、まるで私がここ数年感じていた「質感」とよく似ていた。例えば、ライター友達のますおちゃんとよく「あと10年若かったらね」と話してはつくため息のようなあきらめとか。例えば、ディズニーランドで転んで骨折して、まだ若いつもりだったのに「もう若くない」現実に否応なく引きずり戻されたやりきれなさとか。
30代、いやせめて40代だったら。「成長」とか「選択」「挑戦」「逆転」「未来」とか、キラキラした言葉で語れたかもしれない。けれど、50代の私たちに、その言葉たちはもうまぶしすぎる。誰も、歳をとるスピードは選べない。老いはある日突然、体が思うように動かないことに気づいた瞬間に、否応なく自覚させられる。「時間」というタクシーに乗っているかのように、あっという間に自分の認識と現実のギャップが広がっていく。
映画の舞台は東京から始まる。東京では無数の人がすれ違い、交差する。でも、誰も深くは交わらない。人はたくさんいるのに、孤独だ。それは人生後半で増えていく人間関係に似ていると思った。長く生きていればそれなりに、知り合う人の数も増える。でも若いころのように本音で語り合い、時にはぶつかり合ってでも、時間をかけて深めていくような関係を築くのはもうシンドイ。当たり障りのないことを話してできるだけ平和に、穏やかに。それはまるでタクシーの中で交わされる会話のようだ。一瞬だけ本音が漏れるけれど、車を降りればもう、二度と会うことはないのだ。それでいい。平和だ。
タクシーの行き先は決まっている。主人公である高野すみれが向かうのは、余生を過ごすための老人ホーム。二人の別れのシーンは私に現実を突きつけているように感じた。「時間」というタクシーに乗った私たちには、もう時計の針を巻き戻すことはできないのだと。
この映画は、ある意味残酷だ。たいていの映画は最後に「それでも人生は素晴らしい」「いくつになってからでも遅くない」「希望はある」と言う。しかし『TOKYOタクシー』はどれも言わない。ただ、現実がそこにあるだけだ。歳をとることを肯定も否定もせず、ただ正面から見せてくる。
運転手役を演じた木村拓哉さんもすばらしかった。『TOKYOタクシー』ではすみれを施設まで送り届けるタクシー運転手、宇佐美浩二を演じている。映画の中で、山田洋二監督は木村さんに老眼鏡をかけさせた。「キムタク」も53歳。同年代だ。老眼鏡をかけていたっておかしくない。だけど、木村さんはやっぱりかっこよかった。それは木村さんが「抗っていない」からだと思う。若作りしたり、若い人に張り合って勝とうとしたり、若かった頃には持っていて今は失った何か(例えば白髪のない黒い髪とかハリのある肌とかクマのない目元とか)を取り戻そうとしないからではないだろうか。
私たちは等しく時間を与えられている。その時間は、生まれた時からさらさらと、毎日砂時計の砂が落ちるように過ぎていく。木村さんは流れる時間に勝とうとはしない。だが負けてもいない。自然に歳を重ねていくことを受け入れ、歳をとることを「演じない」のがかっこいい、と思った。
映画が終わった後、私はしばらく席を立てなかった。「自分は時間(老い)に対してこんな態度でいられるだろうか」と考えさせられた。
誰もがいつかは歳をとる。若さを失った後、役割が減った後、体が思うように動かなくなった後に、私は自分をどう扱うだろう。
成功するかどうかじゃない。
輝けるかどうかでもない。
衰えていく自分を認めつつ、でも投げやりにならない。ただ、生きていく。
私は、私に対して誠実だろうか。
「タクシー」という逃げ場のない空間の、時間だけがただ静かに進んでいく中で、山田監督が投げかけたのはそんな問いだったのかもしれない。
「あんたもがんばりや」
94歳の山田監督から、そう励まされたような気がした。
文/森 佳乃子
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