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記憶と思い出【さとゆみの今日もコレカラ/第 110 回】

記憶力がニワトリだ。3歩歩くとすぐ忘れる。

歌野晶午さんの作品に、『葉桜の季節に君を想うということ』という 444 ページの名推理小説がある。先日それを読んだのだが、残り 15 ページになったところで、タイトルの示す意味に戦慄し、同時に「あ、この本、読んだことある」と、なった。しかも「これ読むの、3回目だ」となった。

2回目の時も、残り 15 ページになったところで、タイトルの示す意味に戦慄して、「あ、読んだことある」と、なったのだ。

この「葉桜本」に限らず、読んだ本の内容をほとんど覚えていない。かような私に読書をする意味はあるのだろうか。

読書だけではない。

友達や恋人と話したことが思い出せない。とても楽しかったことは覚えている。大切な人だったことも覚えている。だけど、交わした会話のほとんどは、忘れている。「私、そんなこと、言ったっけ?」「そんなこと言われたっけ?」の連続だ。親しく過ごした人ほど、たっぷりと水量のある湖に記憶は沈み、取りだそうと思うと溺れる。

全部忘れてしまうのに。

今日話しているこのことも、きっと忘れてしまうのに、それでも今日も本を読み今日も話をする。

ひょっとしたら、思い出せないたくさんの記憶は脳にとどまらず、血になり肉になっているのではないかと考えてみる。

ここにある、と指差し取り出すことはできないけれど、多分、この 50 何キロかの体重のどこかに、その記憶をもった血や肉がいる。

直感に従って何かを決めるときほど、私は血や肉の声なき声に従って決断をしているように思う。脳が覚えているほうのことではなく、思い出せない記憶の集積に判断を委ねているのではないだろうか。

「思い出は全部記憶しているけどね、記憶は全部は思い出せないんだ」

『すべてが F になる』(森博嗣)より

記憶している思い出よりも、思い出せない記憶のほうに、大切な決断をさせていることが多い。多分。

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私の青春時代のすべてを詰め込んだこの展覧会。これを1つのビジュアルで表す最適解が、このイラストなのだと。今はそんな気がしている。

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