
エッセイの種の探し方【さとゆみの今日もコレカラ/第 149 回】
昨夜の梅田でのトークイベントで、エッセイをどのような手順で書くのか?と、質問された。
もう少し、平たくいうと「個人で書くブログと、お金をもらえる(本にしてもらえる)エッセイの差は何か?」について聞かれたともいえる。
お金を払ってでも読みたいエッセイは、読者になんらかの気づきや新しい価値観の提示をしてくれるものが多いと思う。
たとえば、「中学に入学したうちの子の最近の悩みは友達との摩擦である」だけでは、ただの子育て日記だが、「その悩みとは、ひいては大人社会の人種差別の縮図であり、自分のアイデンティティへの問いかけである」まで書かれたのが、『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』である。
あの本は、「私の息子の話」ではなく「息子の目を通して世の中を見ると、現代社会の課題がありありと浮かんできた」というエッセイだと私は思っている。
では、自分の子どもの話を題材にしながら、それをただの個人ブログではなく社会に開かれた(お金をもらえる)エッセイにするためにはどうすれば良いのか。冒頭の話に戻る。
✳︎
私は昨夜のトークイベントで、「2つの物事を並べて抽象化する」ことが、エッセイの種になるのではないか、という話をした。
たとえば、
①似ている物事を2つ並べて、共通点を抽出して抽象化する。
②逆の現象が観察できる物事を2つ並べて、抽象化する。
エッセイがただの個人的な話ではなく、社会性を持ち「文芸(文章による芸)」になるのは、この抽象化の作業を経た時だと私は思っている。
たとえば、過去に私は「最近ご活躍ですねと言われるときは、全然活躍していない」という趣旨のエッセイを書いた。これは、息子と道を歩いていたときに蝉の死骸を見て会話したことが、何かに似ていると思ったところからスタートしている。
まず、これを現象Aとする。
現象A)
蝉の死骸をを見たときに私は「セミは土の中で何年も過ごしていて、地上に出てくると1週間で死んでしまうんだって」と息子に話した。すると息子は「それは知っているが、蝉は地中でも生きている。人間から観察できる地上での時間だけを『生きている』というのは変だ」というようなことを言った。
この話を聞いた私は、何かに似ている、と思った。
似ていると思った現象Bは、以下のようなことである。
現象B)
自著が出版された後、テレビ出演や講演会などで忙しくしているときに「ご活躍ですね」と言われることが多い。でもその言葉には違和感がある。最も頑張ったのは、本を出すまでの時間である。テレビ出演などは、その頑張った期間の成果がいま目に見えているだけである(むしろ新たな活動ができていない時期とも言える)。
このAとBの2つの現象を比べて共通点を抽象化すると、
「他者から見て活躍しているように見える期間は、実は活躍していないことが多い。実際に活躍している期間はそのだいぶ前にある(だから、この時期に、新しい生産活動にうつらないと、先細る)」
とでも言えるだろうか。
これが、「2つの似た現象の比較、からの抽象化」で、エッセイの種を作る方法だ。
昨日、トークイベントの帰り道、この思考手順について担当編集者のりり子さんと話した。
りり子さんは、「たしかに、ほぼすべてのエッセイやコラムは2つの物事を比較し抽象化したときの気づきが書かれている。短いエッセイやコラムほど、その傾向は強い気がする」と言っていて、ああそういえば、新聞のコラムなどは、まさにそうだなあと思った。
*
私は、エッセイには、発見が2つ必要だと思っていて、これまでのセミナーなどでもそう話してきた。これも、似ている事象を見つけて比べて抽象化するという話につながっている。
この場合で言うと、蝉の地上生活とテレビ出演が似ていると思ったことが1つ目の発見。
そして、それが「どう似ているのか」について考えるうちに(書きながら考えることが多い)、もうひとつの発見をする。たとえば、「活躍しているように見える時こそ何もしていない時期だ(活躍しているのはその前の時期である。
だから表に出ている時に調子に乗って何もしないと危ない)」という2つ目の発見だ。
この2つめの発見があると、(お金をもらえる)エッセイになることが多いように思う。
✳︎
昨夜、トークイベントに来てくださった皆様、ありがとうございました。「似ているものを探してエッセイの種にする」について、もう少し具体的な例を出して説明するのでちょっとお待ちくださいと回答を保留させてもらった件について書きました。お返事するまでに時間がかかってごめんなさい。
【この記事をおすすめ】
僕にとって、歌舞伎は小説と似ている。読み返したり、本を閉じて何時間もゆっくり考えたりはできないが、たっぷりと「間」をとってくれるので作品を観ているときに思考をめぐらせる時間が長い。


