美容の可能性に挑戦し続ける 原田忠さん(資生堂トップヘア&メーキャップアーティスト)インタビュー
漫画やアニメをモチーフにした作品で、美容の持つ可能性を広げたトップヘア&メーキャップアーティスト 原田忠氏。 航空自衛隊航空管制官から美容業界へ転身後、資生堂に入社する異色の経歴の持ち主。資生堂の美容技術専門職において頂点となる「トップヘア&メーキャップアーティスト」まで上りつめた。 数々の賞を受賞しながらも、変わらぬ努力と探究心溢れる精神で、革新的な作品を世に送り出し続けている。
人と寄り添えるコミュニケーションを求め、自衛隊から美容師に
___ 本日は、お時間をいただきありがとうございます。以前、原田さんにインタビューをさせていただいた際、東日本大震災の前後で創作にかける気持ちが大きく変わったと伺いました。ご自身が自衛隊に所属されていた経験も関係していたのでしょうか。
原田忠さん(以下・原田) 震災があった日、あらゆるメディアが波にのまれていく被災地の映像を流していました。それを見るたびに思いました。同じ空の下で苦しんでいる人がいる。それなのに、かつて有事に対応するための訓練をしていたはずの自分は何もできない。なぜ、予備自衛官にならなかったのかと、初めて過去の決断を後悔しました。
でも、そう思った時、同時に家族のことが脳裏に浮かびました。実は当時、妻は出産を控えていました。数週間後に自分は父親になる。目の前の大切な存在と小さな命をおいていくことはできないし、それすら守ることができないのであれば一体何ができるのだろう、という思いも芽生えました。僕ができることは何か、美容にできることはあるのだろうかと悩み葛藤しました。
___ 原田さんが自衛隊に在籍されていたのは、いつごろでしょうか?
原田 まさに湾岸戦争が勃発した頃です。愛知県の小牧基地にある術科学校で勉強をしていた時のことです。基地内にサイレンが響き、戦争が始まったことを知らされ、緊張感が走ったのを覚えています。
小牧基地はその後PKOで輸送機が飛び立つ拠点となったので、デモ隊や警察、右翼が基地を取り囲み、長期の外出禁止令が出ました。昨日まではずっと続くと思っていた平和な日常が、一瞬にして変わってしまう現実を突きつけられました。もちろん、そのための訓練を積んでいたつもりですが、いざ現実となると言いようのない危機感が迫ってきました。自衛官であるということは、世界のどこかで発生した有事が自分の日常にダイレクトにつながるのだと実感した出来事です。
___ そもそも、なぜ自衛隊に入隊しようと思われたのですか。
原田 中学年のころだったかな。学校の上空に戦闘機がよく飛んできていたんです。エンジン音を響かせながら旋回して基地へ戻っていく戦闘機の姿は、山と川しかないような田舎で育った僕にとって神々しく見えました。退屈な毎日から解放してくれるかもしれないという、淡い期待を抱かせる非現実的な存在だったのです。それで、戦闘機について調べているうちにパイロットにも興味がわいてきて。いつの頃からか、パイロットを目指すようになりました。
高校卒業後は、自衛隊内の戦闘機のパイロットを養成する航空学生に進学しようと決めていました。でも、現実は甘くなかった。受験したのですが結果は不合格。人生初の挫折を味わうことになりました。ただ、どうしても諦めきれなかったんです。戦闘機のパイロットになるために残されていたもう一つの道は、自衛隊員になることでした。
___ 入隊後、夢は叶いましたか?
原田 残念ながら叶えることはできませんでした。パイロットになるための試験や身体検査で「適正がない」と判断され、ことごとく受からなかったのです。そこで第二希望だった航空管制官の道に進みました。航空機の離発着を指示し、空の交通整理を担い、乗客の安全を確保する非常に責任の重い仕事です。間接的ではありますが戦闘機や民間機に関わることもできる。サポートする側ではありますが、やりがいも感じていました。
___ それにもかかわらず、なぜ辞めようと思われたのでしょうか。
原田 夢が叶わなかったから、ということに尽きると思います。それだけでも辛いのに、自分が憧れていたパイロットをサポートする立場。これが定年まで続くのかと思うと、フラストレーションがたまっていきました。最初はモヤモヤする気持ちをなんとか抑えていましたが、そのうちすべてをリセットして、別の道を探したほうが良いのかもしれないと考えるようになっていました。
僕がついていた航空管制官の仕事は基本的に無線を通した声と声のやりとりで完結する仕事です。でも、乗客の大切な命を預かっているのにも関わらず、僕はその乗客の顔を思い浮かべることができない。声だけでやりとりするコミュニケーションに、いつしか希薄さと違和感を感じていました。明らかに管制官としては失格です。そんな状態から抜け出さなければいけないのに抜け出せずにいました。
そんなふうに悩んでいたある日、突然頭にパッと浮かんできたイメージがあったんです。それが、母が経営している実家の美容室でした。カットやパーマやセットをして、その対価をいただき「ありがとう」と言われて笑顔で帰っていただく。人と触れ合い、その人の人生に寄り添うことができる仕事。すごくシンプルで素敵なコミュニケーションじゃないか。そう思ったら、急に美容師が魅力的に思えてきました。
___まさに灯台下暗し、ですね。
自分が育った環境こそが、自分の居場所だった。自分と素直に向き合った結果、管制官ではなく美容師として働きたいという気持ちになりました。ずいぶん遠回りしながらやっと気づいたんです。
___ 辞めたいと伝えた時の同僚や先輩たちはどんな反応でしたか?
原田 それはもう、強く引き止められました。「こんなにやりがいも誇りもある素晴らしい仕事を、なぜ辞めたいのか」と。今なら、あの時の上司の気持ちがわかります。後輩に美容師を辞めたいと相談されたら、僕もあの時の上司とまったく同じことを言いますね。上司は航空管制官という仕事に対して、情熱や信念を持っていたのだと思います。ただ、当時の僕はそこまで考えることはできなかった。若さゆえということもありますが、もう前しか見えていませんでした。早く美容師になりたいという焦りと、遠回りしてしまった歳月を早く埋めたい一心で自衛隊を辞めました。
自分の居場所を探し続けた下積み時代
___ 規律の厳しい自衛隊と自由度の高い美容の世界では、相当ギャップがあったと思います。学生生活は楽しめましたか。
原田 楽しかったですよ。当時はジュリアナ全盛期だったので、踊りにいったりしましたね。あとは、遅刻をして教室に入るのに憧れていたので、わざと遅刻したり(笑)。ものすごく先生に怒られましたけど、今はいい思い出です。自衛隊時代にできなかったことを、目一杯経験できた時間でした。
でもその反面、焦りもありました。同級生の多くは高校を卒業したばかり。周りは3歳くらい年下です。たかが3年ですが、当時はどうしてもそう思えなかった。疎外感や遅れを強く感じていたので、自分自身にかけるプレッシャーは大きかったです。
___ 若い頃のほうが年齢差が気になるものですよね。
原田 美容室でのインターン時代も当然ながら先輩は年下です。中には10代の子もいました。美容師は先輩から指導を受けるのが当たり前の世界。とはいえ、自分よりも若い先輩から指導を受け、時には怒られるわけですよ。やっぱり悔しい気持ちはありますよね。早く一人前になろう、認めてもらおうと必死でした。ただ、指導をしてくれることに対して感謝の気持ちを忘れないようにすることは、常に心がけていました。謙虚な姿勢でいることの大切さは、この時に学んだと思います。
___ 一度は美容師として歩み出した原田さんですが、いつごろからヘア&メーキャップへの転身を考えはじめたのでしょうか。
原田 ヘア&メーキャップアーティストになりたかったというよりは、もっと美容を極めたいと思ったことがきっかけになりました。ちょうど、入社して3年目くらいだったと思います。仕事にも慣れてきて、美容師としての自信を持ち始めたころです。本屋で女性誌を立ち読みして、掲載されているヘア特集をみていたんですね。そのとき、ふと思ったんです。髪型だけではビューティーは完成しない。メイクや服装などトータルがそろって初めて完成するものなんじゃないかと。
それまでの僕は髪以外、まったく見えていませんでした。雑誌もヘア特集以外は見向きもしなかった。それにも関わらず、全てを理解したような気になって接客をしていたわけです。知ったかぶりをしてお客様にあれこれ提案していたのかと思うと、自分の無知さや無責任さがとても恥ずかしくなったんです。美容について、もっと勉強しなければいけない、と。
___ 非常にストイックに美容と向き合ってらしたんですね。
原田 中途半端な自分が許せなかったんだと思います。それから自分なりに美容について学ぼうとしたのですが、やっぱり自己流には限界がある。それで、資生堂のヘアメークスクールSABFAに通って本格的に勉強をしようと決めました。
やるからには真剣に取り組みたかったし、もっと先へ進みたいという野心もあったので、美容室はスパっと辞めました。結果的に、その決断は間違っていなかったと思います。入学してみたら、授業と課題に追われて寝る時間もないくらいハードな日々が待っていたので。
たった一年間でしたが、SABFAでの時間はとても濃密な時間でした。美容の可能性を感じることができた、僕にとって原点であり人生の転換点でもあったと思います。
___ 学校を卒業した後、美容室には戻られなかったんですよね?
原田 美容室に戻ることは考えていませんでした。とはいえ、明確な目標があったわけでもなく。この先どうしようかなと考えていた時に、担任の先生(上田美江子氏)から資生堂の採用試験を受けてみたらどうかと声をかけてもらいました。採用は毎年あるわけではないので、チャンスだと。採用枠は1名だったんですが、縁あって合格をもらうことができました。
___ そこから本格的にヘア&メーキャップアーティストとしての道を踏み出されたわけですね。
原田 そうです、と言いたいところですが、最初はアシスタントからのスタートです。少しくらい美容のキャリアがあっても、新人は新人。会社組織の中では美容師免許を持っているサラリーマンのようなものでした。毎月、業務計画や実行したことに対する所感を提出したり、次々発売される新商品やソフト情報を覚えたり。
何より大変だったのは、撮影のたびに提出する報告書の作成です。お客様からの問い合わせに対応できるように、撮影で使った化粧品の詳細などを細かく記録するんですが、これが本当に苦手で……。週に2、3回撮影があると、その分だけ報告書もたまっていくんですよ。ただでさえ忙しいのに、ひたすら増える事務処理には苦労しましたね。
この状態から頭ひとつ抜きん出るためには「とにかく確固たる実績が必要だ」「まずはコンテストで結果を残すことが実績になるはずだ」と考えて、休みの日は全部練習に費やしました。業務の合間をぬって夜な夜な作品をつくり、コンテストにチャレンジしていました。
___ JHAで初グランプリを受賞されたのは、入社してどれくらいの時だったんですか?
原田 5年目ですね。賞を取ったことで、美容業界での自分の立ち位置は少しだけ変わり始めたと感じました。でも、会社の中ではさほど変化はなかったんです。あくまでも重視されるのは社歴なので、若手の枠から外れることはできなかった。
「どうにか認めてもらいたい」「自分のオリジナリティを発揮できる場が欲しい」という気持ちがあるのに、状況は全然変わらないんです。念願のJHAグランプリを取ったのに、やりたい仕事を任せてもらえないジレンマを抱えていました。今思えば、周りからは単なるラッキーボーイにしか見えてなかったのかもしれません(笑)。
___ 原田さんの作品といえば『ダーク』というイメージがありますが、その時の心理状態も反映されていたのかもしれませんね。
原田 日々の業務への葛藤や言葉にできない不平不満、認められたいという自己顕示欲、溜まりに溜めた思いをぶつけるように作品に投影させていました。悩み苦しんでいた当時の自分が、ものの見事に作品に現れていますよね。今見ても、自分の中で湧きあがっていた感情が痛いくらい作品から滲みでていると感じます。逆境や反骨精神をエネルギーに変換した表現でした(笑)。
___ そのような悩める時期から抜け出せたのは、いつ頃ですか。
原田 入社6年目くらいだと思います。男性用ヘアスタイリング剤「UNO」のプロモーションで、お笑い芸人50人のヘアスタイルを変える企画を担当したことがきっかけになりました。
それまでUNOのCMは、ミュージシャンやタレントを起用していたので、お笑い芸人というのは異色のキャスティング。多少ならずとも「キワモノ」だと思っている人は社内にもいました。だったら、絶対に彼らをかっこよくして、世の中にもインパクトが出せる宣伝広告にしてみせると、やる気に火がつきました。
50人分のヘアスタイルを考え、それぞれに使用する商品を振り分けて行った撮影は4日間ほぼ徹夜でした。だから、お披露目になったプレス発表会やその後のテレビCMが話題になった時は本当に嬉しかったです。
___ 当時、かなり話題になりましたよね。
原田 僕自身も50人の仕上がりに満足できました。芸人さんたちが本当にかっこよくなったんです。男性スタイリング市場を底上げしただけではなく、世の中にも影響を与えることができました。
それと同時に、会社の中でも一人のヘア&メーキャップアーティストとして、やっと認めてもらえるようになったんです。美容業界と社内での立ち位置がリンクしてきたことを肌で感じることができて、大きな自信につながりました。
__ その経験は作品に変化をもたらしましたか?
原田 精神的な余裕が生まれましたよね。ちょっと冒険しようと思えるようになりました。
それまでは、衣装やモデルのポージング、撮影の角度に至るまで自分で決めなければ納得する作品はできないと思っていました。でも、衣装をスタイリストさんにお願いしてみたり、カメラマンさんの意見を取り入れてみるようになったんです。
それぞれのプロフェッショナルな感性を取り入れることで、自分でも予想しなかったような新たな表現が生まれるようになりました。ガチガチに凝り固まっていた今までの自分からやっと解放された気がしました。チームワークの大切さや密なコミュニケーションの必要性を感じ始めたのもこの頃です。
それからは、人の意見を聞くことはもちろんのこと、意見を出しやすい環境にすることも意識するようになりましたね。結果的に表現の幅も広がり、次のステージへ進むことができたのだと思います。
3.11を経て変化した創作への思い
___ 震災後、多くの人がそれぞれの立場で人間の無力さを感じていたのではないかと思います。特にものづくりをする人たちには、大きな影響があったのではないでしょうか。原田さんも、しばらくの期間、作品をつくることができなかったと伺いました。
原田 僕たちの想像を絶する悲しみや辛さ、苦しみが被災地にはあふれていたはずです。この有事に求められるものは美容ではない。災害救助であり、暖をとれる場所であり、空腹を満たす食料、ライフラインをいかに早く取り戻すかが最優先であると思いました。とても作品づくりをする気持ちにはなれませんでした。自分は何ができて、誰の何を満たすことができるのか? 考えれば考える程、自分の無力さを痛感させられました。
___ その気持ちに変化が訪れたのはいつ頃ですか?
原田 震災があった年に、布袋寅泰さんと吉川晃司さんのユニット『COMPLEX』が20年ぶりに再結成し、震災チャリティーライブを実施したんです。東京ドームで2days。のべ11万人が集まり、寄付額は7億円にものぼったそうです。
僕は布袋さんのヘアメーク担当として参加しました。「日本一心」を掲げた言葉どおり、被災地へ向けて、まさに日本中が心を一つにし復興支援のエールとパワーを届けているようで、心を突き動かされ震えました。同時に、では美容に何ができるのかという気持ちも入り混じりました。
ただ、その時に気づいたのです。一人という単位では、できることは限られる。でもこの場も一人一人の想いが集まって、初めて大きなエネルギーになっているんだって。だから、たとえ小さくてもいい。僕なりにできること、美容だからこそできる「何か」がどこかに必ずあるはずだと考えるようになりました。
___ 悩み続けた中で創作されたのが、個展でも公開されていた「HANA」という作品ですよね。
原田 資生堂が被災地で開催した展示会「ラブレター展」に出品した作品です。あえてヘアメーク表現はせず、編み込みだけで大輪の花を表現しました。
___ なぜ、モデルさんでヘアメーク表現をしなかったのでしょう?
原田 キレイなモデルさんを使えば、短時間で華やかな作品をつくれます。でも、個人的な主観として、それだと付け焼刃というか、その場限りになってしまう気がして。震災後、僕なりに葛藤した期間があったわけです。震災を通して感じた想いを表現するのは、そんなに簡単なことじゃないと思ったんです。
「HANA」を作り上げる工程は、僕自身が震災としっかりと向き合うための時間にしたい。そう思いました。答えは見いだせないかもしれませんが、悩み、考え、納得いくまで作品と自分、そして美容に真摯に向き合いたかった。そのために必要な時間だったんです。
「HANA」は、千羽鶴を折るように思いを込めて編み込んでいました。毎日終電まで作業をして、正月休みも返上して編み続けました。完成までに一ヶ月近くかかりましたね。
___ 展示会で公開したときの反応はいかがでしたか。
原田 仕事の都合で会場へいくことは叶わなかったのですが、作品を見たという大学の先生からメールをいただいたんです。「作品に添えられたメッセージに美容とは無力だとありましたが、美容は無力ではないです。日常に戻す力があります。もっと誇りに思ってください」と。
会場には僕以外のヘアメーク作品も飾られていました。多くの方が来場し、「感動した」「一瞬でも辛さを忘れることができた」「涙があふれてきた」など、ヘアメーク作品からにじみ出るメッセージをそれぞれの感じ方で受け取ってくれていました。
作品に込めた思いを受け取ってくれた人がいるという嬉しさと、被災地の方々に、美容の素晴らしさをさらに推し進めて欲しいと逆に励まされ、背中を押された気がしました。
___ 震災の翌年には、JHAで2度目となるグランプリを受賞されていますよね。2004年にグランプリを受賞した作品と比べると作風がガラリと変わったと思いました。創作に対して、どのような変化があったのか気になります。
原田 それまで、作品とは自己表現をするだけのものだとずっと思っていました。でも、震災や子どもの誕生を経験したことで、作品を見てくれる人に対して思いを届けたい、作品を通じてコミュニケーションしたいと思うようになったんです。
見た人が温かい気持ちや希望を感じとって欲しい。暗い世の中に押しつぶされそうになった夢をあきらめないで欲しい。そんな祈りにも近い願いや想いを込めた作品が、嬉しいことにグランプリを受賞しました。
___ 原田さんは今でも個展で販売されたポストカードの収益を赤十字へ寄付したりと、支援を続けていらっしゃいますよね。
原田 月日が経つと、人々の関心が薄れていくのは仕方のないことかもしれません。だからこそ、小さいことでも日々できることを続けていくことが大切だと思っています。ポストカードもその一つです。
例えば、僕はFacebookに震災関連のことが投稿されたら「いいね!」を必ずします。「いいね」だけで、応援しているという気持ちを表明することもできますし、友人たちの目にもとまります。本当に小さなことかもしれません。でも、行動するかしないかは大きな違いです。これからもできることを考え、実行していこうと思っています。
美容表現に革命を起こした『ジョジョ』ができるまで
多くの人の記憶に残った『ジョジョの奇妙な冒険』をモチーフにした作品は、5年という歳月をかけて生み出された。ホームページへのアクセス数が300万を超え、サーバーはダウン。美容と漫画のコラボレーション。革新的な挑戦は、美容業界に新たな可能性と道を切り開いたのではないだろうか。
___ なぜ『ジョジョの奇妙な冒険』を題材に作品を作ろうと思ったのでしょうか。
原田 美容と漫画のコラボレーションは、いつか実現したいと密かに温めていました。モチーフとしては、連載第一話から愛読している『ジョジョの奇妙な冒険』にする。これは心に決めていました。この漫画の大ファンである僕がクリエイティブディレクションをして、最大限のオマージュ(敬愛)とリスペクト(敬意)を込めた作品を創りたい。美容表現の可能性に挑戦したいと純粋に思ったのが理由です。
___ 『ジョジョの奇妙な冒険』は、絶大な人気を誇る漫画です。表現することに対して、プレッシャーはありませんでしたか。
原田 僕自身、漫画の大ファンです。キャラクターが3次元化されることに対してファンの気持ちは真摯に考えました。自分も彼らも納得できる仕上がりを目指し、原作の持つイメージをさらにイメージアップできるようなアプローチを心がけました。
特に意識したのは漫画のキャラクターをそのまま表現するのではなく、ファッション性をより高めた解釈をすること。それにはフォトグラファー、スタイリスト、レタッチャー、モデル、そして僕自身。それぞれが自分たちのフィルターを通して、自分たちの『ジョジョ』を表現することが必要だと感じました。漫画とビューティーとハイファッションを掛け合わせることで、こんな解釈もできるんだという可能性も示唆したかった。そうすればきっと受け入れてもらえると信じていました。
___ この作品は原田さん自身がディレクションをされたんですよね?
モデル選定やスタッフィング、コンセプトシートの作成など、イメージを自分なりに構築して、それをチームで共有して撮影するプロジェクトを総括することは、ヘアメークの領域を超える仕事です。でも、この表現に関してクオリティを担保するためには、自分がディレクションすることが必要不可欠でした。
___ どんな感じで制作を進めていったのでしょうか?
原田 僕は、一緒に作品をつくるスタッフに細かい指示はあまり出しません。撮影の一ヶ月前くらいにコンセプトシートを投げたら、後は各々の感性と解釈に任せます。もちろん、最低限おさえてもらいたいポイントやイメージだけは外さないようしっかり共有した上での話ですが。
回を重ねるごとに、チームワークとクオリティの精度が高まっていく実感がありました。クリエーターとしての高みを目指すメンバーそれぞれの姿勢が、作品の完成度を底上げしていたと思います。0から1を創る作業ですから、正直手さぐり状態でした。でも、好きなことをとことん突き詰められるチームで、やることなすこと全部が刺激的で。楽しかったことしか覚えていません。
___ 『ジョジョの奇妙な冒険』や、その後に続く『テラフォーマーズ』の3次元化は、美容業界という枠を超えて一般の人にもインスパイアを与える作品になったと思います。
原田 美容師がいくら素晴らしい作品をつくっても、なかなか一般の方の目にとまることはありません。だから、業界を超えて多くの方へ届く作品をつくれたことは、素直に嬉しく思っています。
この間、仕事でインドネシアにいったのですが、現地の方に「ジョジョ!」と声をかけられたんです。さすがに驚きました(笑)。人の心に刺さる作品をつくれば、業界どころか国境さえ超えていけるんですよね。そのことを目の当たりにしました。
___ 漫画を3次元化された作品が多方面で話題になったことで、美容業界に対して興味を持つ人も増えたのではないでしょうか。
原田 そうなると嬉しいですね。美容業界にも少子高齢化の波が押し寄せ、なり手が減少しているという現実があります。一連の作品を見てくれた人が、美容の楽しさや可能性に少しでも興味を持ってくれたら嬉しいですし、素晴らしい美容の世界に飛び込むきっかけになれば、なおさら嬉しいですね。
___ 原田さん自身は、美容業界でどのような存在でありたいと思っていますか。
原田 微力ではありますが、業界の発展に貢献、寄与できる活動を継続的にやっていきたいですね。アクションを起こしても、誰からも関心を持ってもらえず反応してもらえなくては、アクションしていないのと同じことです。だからこそ、新しいことにどんどん挑戦し、イノベーティブなアクションとアウトプットを続けていきたいと思っています。そういった一つ一つの仕事が、巡り巡って誰かの喜びや幸せにつながってくれたら、これ以上嬉しいことはないですね。
___ これからも、既存の概念にとらわれず新しい美容の世界を切り開いていただきたいです。
原田 これからも新しい美容の価値を生み出し続けたいと思っています。一連の作品を通して、思い描いていた夢が現実となりました。これからは、今までと違うベクトルの挑戦も視野に入れて考えています。近いうちに、新しい企画をお伝えできると思いますので、是非楽しみにしていてください。
(了)
撮影/中村彰男
インタビュー/佐藤友美・佐藤桂火
文/藤村真貴奈
原田忠(HARADA TADASHI) 資生堂トップヘア&メーキャップアーティスト
航空自衛隊航空管制官を経て、5 年間のサロンワーク経験後、1999 年SABFA 卒業、2000 年に資生堂入社。資生堂ビューティークリエーション研究センターに所属する、トップ ヘア&メーキャップアーティスト。宣伝広告やNY・パリコレクションでのヘア&メーキャップ、ヘアスタイリング剤の商品開発にも携わるなど活動は多岐にわたる。
創作活動にも意欲的に取り組み、2013年には人気漫画『ジョジョの奇妙な冒険』(集英社)とのコラボレーション作品を発表、2014年『テラフォーマーズ』(集英社)のキャラクターを3次元化。そして2015年は「東京ワンピースタワー」クルーのヘアメークディレクション、映画『ドラゴンボールZ 復活の「F」』の主題歌、「『Z』の誓い」を歌うももいろクローバーZのMVヘアメークディレクション、そして新たに『銀魂』キャラクターの3次元化を手がけるなど、ヘア&メーキャップ表現による無限の可能性に挑戦、発信し、その美容技術に裏付けられたクオリティーは、国内外から高く評価され話題となる。
受賞歴に2004 年、2012 年JHA(Japan Hairdressing Awards)グランプリ、他受賞歴多数。著書に『一流の男のボディケア』(PHP研究所)がある。
資生堂トップヘア&メーキャップアーティスト 原田忠 オフィシャルHP
資生堂 原田忠×『テラフォーマーズ』 マンガ×ビューティー企画展開中(集英社ヤングジャンプ)
『ジョジョの奇妙な冒険』コラボ作品集フェイスブックページ
「原田忠×『テラフォーマーズ』」特設サイト /資生堂プロフェッショナル【アドルフ・ラインハルト】
「原田忠×『テラフォーマーズ』」特設サイト /資生堂プロフェッショナル【ミッシェル・k・デイヴス】