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ボロッボロの雑巾になる。スッカスカのスポンジになる【さとゆみの今日もコレカラ/第490回】

「教えることで得られる、ものすごく素晴らしいこと」というお題をもらって書いています。

私はライターになって24年目なのだけれど、19年目から20年目にかけて、突然原稿がうまくなった。

これは、さとゆみ当社比だけど、いろんな編集者の方から言われたので、多分気のせいではないと思う。

19年目から20年目にかけて何があったかというと、「書くことを教える」が始まった。

20人の文章を添削するのは、20本の原稿を書くことの10倍鍛えられる。

文章を添削するとは、自分がバットを振ってボールを打つのではなく、いろんなフォームでバットを振る人たちを、打てる選手にする行為である。自分が何気なくしていることも、全部言語化する必要がある。

バッドの握りはどうか、腰はいつ回転するのか、どの筋肉をつければよいのか、ノーアウト2塁3塁のときと、2アウト走者なしのときの振り方は変わるとか、フォームだけではなく選球眼も必要だとか。

「この1球だけまぐれでホームラン」ではなく、高い打率で再現してもらうには何が必要になるか。10年後も変わらない技術は何か。いや、技術ではなく心構えかもしれない。そんなことも考える。

これはもう、自分一人で書くよりも、何十倍も頭を使う。この時期、私は、私が添削したどの生徒さんよりも、原稿がうまくなったと思う。

人に何かを教えるなんて、なんて自己犠牲なのだろうとも思っていた。人生は、学び続けたほうが絶対に得だ。いくつになっても私は自分よりも目上の人から学び続けて成長し続けて、人からエキスをちゅうちゅう吸って生きていくのだと思っていたけれど。こんなところに、最速でうまくなる方法があったなんて、とびっくりした。

という話は、以前書いた気がする。

さて。ここから本題。

いま私が、教えることの何が一番素敵だと思っているかというと、これまでの自分を捨てられることだ。

自分の考えていることを、誰かに手渡せるレベルまで考え抜く。そのことについてはいったん、暫定解の極みまでいけたと感じるくらい考える。

考え抜いたことを、人に伝えるときに、出し尽くす。水分のかけらが1ミリリットルもない、カラッカラのスポンジにないるくらい、絞り切る。

私はセミナーが終わったあとの自分はいつも、ボロ雑巾だなと思う。スポンジどころかボロ雑巾。自分の全部から搾りとったと感じる。ボロッボロで気持ちいい。スマートだ。

惜しむことなく出しきったその考えはもう、たくさんの人たちのものになったのだから、自分のオリジナルではなくなる。優位性がなくなる。既得権益消失である。ということは、そこにしがみついていたら、次はない。

すっかすかのカラッカラになった自分は、安心して次の課題に向かうことができる。乾いているし飢えているから、なんでも吸収したい。また肥えることができると思うと幸せだ。

豊かだなと思う。

わ。時間切れ。

「教えることで得られる、ものすごく素晴らしいこと」について書きました。

お題をくれた人は「セミナー業」について聞いてくれたのだけれど、先輩が後輩に仕事を教えるなども、きっと同じかなと思った。

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