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エモく? クールに? したたかに? インタビュー原稿の「文体」を考える【連載・欲深くてすみません。/第21回】

元編集者、独立して丸8年のライターちえみが、書くたびに生まれる迷いや惑い、日々のライター仕事で直面している課題を取り上げ、しつこく考える連載。今日はインタビュー原稿における「文体」について考えているようです。

3000字のインタビュー原稿を書くのに、どれくらい時間がかかるのだろう。あるとき気になって測ってみた。私の場合、トータル6時間。ほう、そうなんだ。ぶっ続けではなく、構成と執筆で日を分けている。

もう少し、細かくログをつけてみた。
構成に1時間。執筆に2時間。推敲や書き直しに1時間。これでしめて6時間。

……あれ? 数が合わない。
どなたか、私の2時間を見ませんでしたか? 遊びに出かけたのかな?

資料を机の上に並べ、パソコンの前に座り「さあ、今日も元気に原稿を書こう!」と始めてから、構成に着手するまでの、2時間。何の作業とも分類できない空白の時間があった。たぶん口は半開き、目はうつろで「はあ〜、今日も肩こってるわ」とかぶつぶつ言って、何か書いたり消したりしている。

一体、何をしているのか。
アホ面だが、さぼっているわけではない。これから書く原稿の「文体」を探しているのである。

文体。文体とは、文章のスタイルのことだ。
砕けた口調で親しみやすい、形式張っていてお堅そう、なんかエモい、隙がない、思わせぶりで色っぽい……。言葉選びや漢字とかなの使い分け、一文の長短、論展開の仕方によって、文章もスタイルを変える。
エッセイや小説に、それぞれ固有の文体があるのはわかる。村上春樹さんの小説は、どこからどう読んでも村上春樹さんの文体で書かれている。

しかし、私がこれから書こうとしているのは、インタビュー原稿である。話をしている人の口調や言い回しを再現する、という意味でのスタイルは必要かもしれないが、質問と受け答えによって構成される文章において、文体というものがあるのか? その都度変わったり、考えたりする必要があるのか?

ライターが集まると、けっこうこういう話題で盛り上がる。インタビューライターは、文体とかあまり気にしなくてもいいのだ派。いやいや媒体によって固有の文体があるから、媒体に合わせるんだ派。いやいやいや媒体だけでなく、企画や人物によって、それをどう語るかのスタイルは変えるべきだ、すなわち原稿によって文体は変わる派。

インタビュー原稿における文体について、と考えていて、思い出した仕事がある。

何年前だろう。ある分野で著名なAさんに、生い立ちを聞く企画があった。
生い立ちについて聞くことが企画になってしまうくらい、Aさんの育った環境は過酷なものだった。しかしAさんはインタビュー中、きわめて明るかった。そして、とてもエモーショナルに、自身の経験を語った。まるで講談を聴いているかのような、熱のこもった語り口だった。

しかし、最後の数分だけ、地面を睨みつけるような体勢で、生きていくことについてぽつりぽつりと話した。似た境遇にいる人たちに、このメッセージを伝えたくて、インタビューに応じてくださったのかなと私は感じた。

さて、その原稿をどう書くか。

重い荷物を手渡されたような気分になって、私は頭を抱えていた。しかし、何度か取材の音声を聞いたり、文字起こしを読んだりしているうちに、ひとつの考えが浮かんだ。

――この記事は「クール」にしなければならない。

実際にAさんが語ったのよりずっと、口調は淡々と、表現は客観的に。構成は劇的にせず、冷静に、シンプルに。それなら書ける。そのほうがいいと思った。

なぜか。今思えば、理由は2つある。

1つは、Aさんの言葉や思いを曲げて伝えないためだ。インタビューの場が深刻にならないよう、Aさんは明るく、冗談を交えながら話した。

同じ場にいれば、それが気配りだとわかるが、文章だけで見ると印象は変わる。言葉にたくさんついた装飾を剥がさねば、下手をすれば「同じ境遇の人を茶化しているのか」と炎上するおそれがあると思った。

もう1つの理由は、なかなかうまく説明できない。その場にいた自分の直感としか言いようがないのだが「本当は、Aさんは自分の生い立ちをすでに記憶の箱にしまっていて、ものすごく客観的に見つめているのではないか」と、私が感じたからである。

エモーショナルに話してくれたのは、あくまでAさんのサービス精神や、インタビューを受けたことに対する義務感のようなものであって、実のところは、博物館にある数百万年前の標本を見るように、自分の過去を見つめているのではないか。

そうしなければ生きてこられなかったのかもしれないし、そうしてきたから生きていけるのかもしれない。

どれも勝手な解釈で、真実かどうかはわからない。的外れな、私の勘繰りのような気もする。でも私にはAさんという人が、そのように見えた。

私はそのとき、自分が現場で受け取った感覚を、書いてみたいと思った。

編集者さんには、原稿を送るときに「取材時の話しぶりと文体が、少し違うように感じるかもしれません。意図はありますが、編集者さんが違和感を持ったら、書き直します」と伝えた。

編集者さんからは「これでいきましょう」と返ってきた。「Aさんという人が、伝わる文章になっていると思います」と。Aさんご本人にも原稿を見てもらったが、修正の要望はなかった。

そして世に出たその記事には、読んでくださった方から多くの感想が届いた。「Aさんが冷静だからこそ、胸を打たれた」「Aさんの言葉で生きていこうと思った」といった言葉がたくさんあった。

ああ、Aさんの思いが、曲がらずに伝わって良かった。

それより私が心底思ったのは「ひよって、取材のテープ起こしそのままのような文体にしなくて、本当に良かった」ということだった。自分の解釈をふまえた文体にすることから、逃げなくて良かった。ライターとして書き続けていくのに、この経験が根っこのように残っていくだろうな、となんとなく感じた。

インタビュー原稿における文体は、誰の「スタイル」を反映しているのだろう。
インタビューに応じてくれる人の言葉を、まっすぐ伝えるための文体であるべきだ。そして同時に、その言葉を直接聞いた書き手の姿勢や生き方が、おのずとあらわれてしまうものなのかもしれない。

ちなみに「スタイル」という言葉で思い出す名言は、ココ・シャネルの「Fashion fades, only style remains the same」。訳すと「ファッションは消えてゆく、スタイルだけが残る」だろうか。

誰かがつくり出したものではなく、個人に由来するその人らしさのようなものが、最後に残る。そういう意味だとするなら「スタイル」のある書き手になりたいなあ。欲深いけど。

文/塚田 智恵美

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