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「あの日の痛み」は分かち合えない。でも未来なら、みんなで語れる。輪島の子どもたちのいま【能登のいま/第8回】

ライターの塚田智恵美です。7月に、能登半島地震で甚大な被害を受けた輪島市を訪れました。

震災は子どもたちの暮らしにも、深刻な影響をもたらしています。輪島市では、市内6つの小学校の校舎が地震の影響で使用できなくなり、およそ590人の児童が輪島中学校の校舎に通っています(6つの小学校を統合した仮設校舎を建設中。2学期からはそちらで授業が行われる予定)。
中学校・高校では、グラウンドや体育館などの利用に、まだ制限があります。

この震災で友達と離れ離れになった子ども、進路を考え直している子どもがいます。
震災を経て「輪島のために何かしたい」と動き出す子どももいます。

これまで全国の子どもたちや教育現場を取材してきた私は、震災からおよそ7ヶ月経った子どもたちを取り巻く環境や、子どもたちを支える方の思いを知りたいと思いました。お話を伺ったのは、輪島市内で子どもたちの集まる場所を提供している「わじまティーンラボ」館長の小浦明生さんです。(執筆/塚田 智恵美)

子どもたちの「話したくなる瞬間」を待てる場所

「進学やめようと思う。輪島の復興のためにも、働いたほうがいいかなって」
高校3年生がそう話すのを、小浦明生さんは肯定も否定もせずに聞いたという。

市内の小学生から高校生までを受け入れ、家でも学校でもない“第3の居場所”を担ってきた「わじまティーンラボ」。震災後、ラボに通う子どもたちの数はどんどん増えており、いつ覗いても30人ほどは子どもたちが集っている状況という。

まだ避難所で生活している子もいれば、仮設住宅に当選して移った子も。ただし仮設住宅は、2人から3人は2DK、4人から8人は4LDKで、1部屋は狭く、家族それぞれのプライベートゾーンを持つことがなかなかできない。壁が薄くて、電話もしづらいのだそうだ。

「子どもたちの多くが『いる場所がないから』ラボに来ているのではないかと思います。休みの日には、開館の13時から閉館の18時まで、ずっと過ごす子も多いです」(明生さん)

ラボにはビリヤードやダーツのある遊び場や、集中して勉強のできる自習室があるが、子どもたちの多くはみんなが集うスペースにいて、友達やスタッフと会話している。

1階は総合診療を提供する「ごちゃまるクリニック」(明生さんの兄・小浦友行さんが院長)、2・3階が「わじまティーンラボ」のスペース。

輪島を離れて石川県内外のホテルなどに二次避難していた子がそのまま転居したり、いまだ避難中だが「仮設住宅に入ることができたら、戻りたい」と言っていたりと、明生さんの見たところでは輪島の子どもたちの約3割が、現在輪島市を離れている状態だ。

友達と離れ離れになってしまった子もいる。だが震災の日のことや、つらい気持ちを話す場面はほとんどない。

「子どもはなかなか、心の奥底にある思いを話しません。でも、この場所の良いところは、子どもの『話したくなる瞬間』を待てること」(明生さん)

今日はやたらと目が合うな。近くをうろうろしているな。そういうときに「最近どう?」と話しかけると、心のうちをいろいろ話しだすという。

「もう輪島で介護の仕事は難しいのかな」

高3生からは、進路変更の相談を受けることもある。両親の仕事がなくなった、収入の問題で今すぐ働いたほうがいいのでは、と事情はさまざまだ。

介護の仕事に就くことを志していた子どもは、輪島の介護施設が被災し、多くの利用者が市外の施設や医療機関などに移る様子を目の当たりにした。「この状況で、輪島で介護の仕事をするのは難しいのかな。他の進路も考えないと」と明生さんに話している。

「子どもたちは、大人の顔色をよく見ています。僕と話したい子も、僕がちょっと慌ただしくしているだけで『明生さん大変そうだね』と僕を慮る発言をしますから。親がお金の話をしているのも聞いているし、震災後の変化を敏感に察知しているのでは」(明生さん)

輪島の子どもたちが目指す職業はこれまで漁業、福祉、建設業などが多く「もともと選択の幅はそこまで広くない」と明生さん。その上、この震災でさらに選択肢が減った。

「わじまティーンラボ」から10分ほど歩くと、地震で火災が発生し、およそ5万平方メートルが焼失した朝市通りの一帯に出る。

進路変更について打ち明けられた明生さんは「本当にそうしたいのか?」とは聞くが、強く止めることはしないそうだ。事情が事情なだけに止められないという思いもあるが、それよりも「彼ら、彼女らのこの選択が、よりよい人生につながるように、これからも関わっていきたい」という気持ちが強いという。

「僕は、受験のときに希望大学に入ることができませんでした。それでも今、想像を超えた幸せな人生を歩んでいます。たとえ今、進みたい道に進めなくても、人生の終わりではない。ここを始まりにできるように、僕は応援したい」(明生さん)

「今なら言える」未来への思いが噴き出している

「子どもたちが元気に過ごしているのが、僕の救いであり希望にもなっています。小学生は元気すぎて困っている(笑)。エネルギーを発散できる場所がなかなかないのが、問題なほどです」(明生さん)

高校の探究学習のサポートもしている明生さん。探究のテーマを考えるにあたって、高校生の口からは「輪島のために」「復興のために」という言葉がたくさん出てくるそうだ。

意外だったのは、高校生の口から「子どもたちの居場所をつくりたい」という言葉が出てきたこと。避難所や仮設住宅の狭い部屋のなかで、年下の子たちがひしめき合って遊んでいるのを見て「なんとかしたい」と思ったのかもしれない。
しかし、明生さんは「ひょっとしたら震災以前から、自分の居場所を“その子自身が”欲していたのかもしれない」と語る。

「必ずしも『震災前にあったものを取り戻したい』という気持ちだけではないと思います。以前から『あったらいいな』と思いながらも口にできなかった思いが、今、噴き出しているというか。変わっていくまちを見ながら『今なら、思っていることを口に出せば実現するのではないか』と、期待する思いもあるのかもしれません」(明生さん)

小浦明生さん。アパレル会社で約20年勤務後、「わじまティーンラボ」を運営するため、輪島市にUターンした。

8月23日に行われる、輪島市民が一斉に集まるお祭り「輪島大祭」のフィナーレで、復興を願う花火を打ち上げたいと「輪島復興花火プロジェクト」を立ち上げた高校生たちもいる。

未来に向かって動きだす子どもたちの姿を頼もしく見つめながらも、同時に「未来を向くしかない、というところもあるのかな……。“被災の経験”は、みんなで分かち合えるものではないから」と明生さんは語る。

みんなで分かち合えるものではない、とは、どういうことだろうか。

「輪島市内だけでも、被害の状況は、人によってかなり違うのです。被災したけれど家の倒壊はまぬがれた人、家が倒壊した人、火災に遭った人、家族ばらばらに暮らすことになった人、家族や友人を亡くした人……。
みんな、それぞれ違いすぎて、その痛みを想像しきれない。

だから被災した人同士でも、コミュニケーションは難しいです。『自分の立場で、つらいって言っていいのかな?』『目の前のこの人は、もっとつらい状況に遭ったんじゃないか?』なんて不安になってしまう。

それは子どもに限らず、大人も同じです。僕はあの日、妻の実家に帰省していて輪島市にいませんでした。みんな優しいから『あの揺れを経験しなくて、本当に良かったよ』と言ってくれるけど、あの日の輪島を、僕は知らない。

外からは同じ被災者のように見えても、本当の意味で“同じ痛み”を分かち合うことはできないのかもしれない」(明生さん)

孤独を感じるかもしれない。ともすれば分断すら招きかねないだろう。

「過去や現在の痛みを完全に分かち合うことは、残念だけど、できない。僕らが分かち合えるのは、もう『未来』しかないんじゃないかと思うんです。
輪島をもっと元気にしよう。あったほうがいいものを、みんなでつくろう。そうやって高校生たちが動き出したのも、『未来』なら、みんなで語れるからじゃないかな」(明生さん)

子どもたちの夏が、未来が、始まっている。

文/塚田 智恵美

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