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仕事に“私”は必要ですか? シーソーのバランスが取れない私とあなたへ【連載・欲深くてすみません。/第7回】

元編集者、独立して丸7年のライターちえみが、書くたびに生まれる迷いや惑い、日々のライター仕事で直面している課題を取り上げ、しつこく考える連載。今日は、「他者」と「私」、「社会はこういうものだと割り切る楽さ」と「いちいち考えてしまう面倒さ」……いろんなもののバランスが取れずに揺れています。

「それってあなたの感想ですよね?」は、もともと、いかにも統計データや客観的な事実であるかのように装いながら、肌感覚の意見を述べていることを指摘する言葉だ。しかし、今やそのような状況を超えて、さまざまな場面で多用されている。

先日も、バスを待つ小学生の男子2人組が、こんな会話を繰り広げていた。

「え〜、今日の体育はつまらなかったです!」

「それってあなたの感想ですよね?」

2人でギャハハハハハと大笑い。

いろんなことが笑えるお年頃である。かわいいなあと思いつつ、当人たちにそんなつもりはなくとも「個人の主観にまみれた感想を堂々と言うヤツ、ウケる」なんて空気を勝手に感じ取った私は、なぜか居心地が悪くなって、その場を離れた。

バスに乗るかわりに家まで歩き出した。

頭の中で、社会人一年目の頃を思い返す。初めてのカイシャイン。初めて目の当たりにするシャカイ。新しい仕事を担当するたびに、いちいち「なぜこれが必要なんだろう?」「AはBするもの、と周りの人は言うけど、例外はないのだろうか?」などと考え過ぎた私は、入社してすぐに、思いっきり体調を崩した。

「いちいち考えすぎなんじゃない? もっと考えないようにしたら」

こうアドバイスしてくれた大人がいた。でも、人間には、自分の意識次第で変えられることと、変えられないことがある。「考え過ぎてしまう」と悩んでいる人に「考えないようにしましょう」とアドバイスするのは、「ちょっと胃を右に動かしてみてください」と言うくらい、自分の意思ではコントロールできないことをやれと言っているのではないですか、と尋ね返した。相手は爆笑して、じゃあこんなふうに考えてみたら、と言った。

「仕事に“私”は必要ないんだよ」

今、あなたは、仕事にまつわるすべての事象に対して「私は〜を疑問に思う」「私は〜を面白い/面白くないと考える」と、“私”を主語にして捉えようとしている。それはそもそも面倒だし、他人に求められていない。見ようによっては傲慢で、さらに行き過ぎると体を壊す。

意識的に“私”を手放してしまいなさい。自分の外側にあるものについて、おおかた「それは、そういうものなのだ」と決め込んで受け入れるようにすれば、いちいち“私”が登場することもない。そうする癖をつけていけば、いずれ楽になる、と。

なるほど! これに私は納得した。そして、仕事のさまざまな場面で、“私”が出てきて考え始めようとすると「仕事に“私”は必要ない」と唱えた。これは、こういうものなのだ。そう割り切って、この集団、この相手に求められていることに応えたほうが早い。そう、己を黙らせるように。

すると、仕事がサクサク進むようになった。査定面談で評価が上がり、「塚田さんは余計な粘り方をせずに、すぐに帰るのが偉い」と上司に褒められた。何より、自分の生きづらさが改善されたような気がして、嬉しかった。

ところが、しょっちゅう風邪を引くようになった。病院に行くと免疫力が下がっている、と言われ「何か我慢していることはありませんか?」と聞かれた。自分を抑圧すると体に悪いんですよ、と。

はあ? 何なの、このゲーム、と思った。己の内面を覗き込んでいるばかりでも具合が悪くなるし、己を殺していると気づかないうちに体を蝕まれる。シーソーの間でバランスを取りながら人生を攻略していけ、ってか。むずすぎる!

このように悩みに悩んだ20代。アンバランスながらも、ようやく仕事が楽しくなってきた27歳のときにうっかり会社を辞めて、ライターとして独立してしまった。図らずもこの決断が良かったのか、30代に入ると、世の中と“私”の折り合いがようやくついてきた。「その場の『当たり前』を受け入れ、求められることに応えようとする、どちらかというと他者ファーストの私」と、「感じ、考えることが止まらない“私”」が、共存できるようになった。

というか、こいつらに仲良く手を取り合ってもらわなければ、職業としてライターを続けていけないのだ。ライターとしての経験が積み重なるたびに「よかった、シーソーのバランスが取れた」と自信を持てた。こうして人は大人になっていくのですね。

……うそです。格好つけました。

今でもときどき、私はシーソーのバランスを崩す。それは往々にして、他者ファーストで己を殺し、深く考えずにやり過ごしておいたほうが「楽だ」という怠慢によって引き起こされる。そして、私の感じ、考えたことを、他者に伝えて、思いを通わせていこうといった真摯さを失う。他者も自分も諦めて、見下す。要するに、嫌なやつになる。

でも、そうしておいたほうが「早い」なら、社会に「求められる」なら……。

諦めてしまいそうになるたび、誰かに聞いてみたかった。

仕事に“私”は必要ですか?

あるとき、これまでお仕事をしたことのないメディアの編集長から声をかけていただき、インタビューの仕事を引き受けた。

初めての媒体でお仕事をさせていただくときには、そのメディアをつくる方々が大切にしていることや、読者の暮らしぶりや関心ごと、文章のトーンなど、知らなければいけないことがたくさんある。取材が終わり、編集長に少しお時間をいただいて心配なところを確認した。いろいろ疑問点がつぶせて、よし、これで書ける、とほっとした私は、終わったばかりの取材の感想をうっかり述べた。

「それにしても素敵な方でしたね。〜〜という話が、私は一番面白かったですね。それに取材の後で〜〜をされていたのがすごく魅力的だったなあ、なんて」

すると編集長の目がキラーンと光って(と私には見えて)「それを書いてね」とおっしゃった。

えっ。でも、これは私の感想なので。

インタビュー原稿に、書き手の感想は必要ないですよね。

そう思いながら「書いてもいいんですか」と聞いた。編集長は、もちろん、と頷きながら、「私は〜と思いました」という言葉ではなくとも、あなたが感じたこと、その場にいたから捉えられたことを原稿に取り入れてほしい(優秀なライターさんは、とても自然な形でそれができる)と教えてくださった。そして、こうおっしゃった。

「誰にでも書ける原稿にしないで。“あなた”が、今日ここに来たから書ける原稿を、書いてください」

その日の帰り道。一度電車に乗ったものの、途中で降りて、私は家まで歩き出した。

足の先が地面をぐいっと押しこみ、蹴り上げる動きをする。体が宙に浮きそうになるのを、必死で堪えた。

――仕事に“私”は必要だった!

仕事として文章を書くライターは、自分の感想や考えをそのまま書いて提出するような職業とは少し違う。世間、メディア、編集者、取材テーマや対象者、そして読者……。その中を泳ぎ「媒介者」として文章を紡ぐ。

そうして生まれるのは一見、誰かのオーダーに応えた、客観的な視点からの文章であるように見える。しかし本当は、そのすべてが書き手の目で、耳で、心で捉えられ、問い直され、解釈されたものなのだ。

「要点」をまとめるだけなら、誰でも同じものが書ける。でもそれなら、近いうちにAIがやってくれるんじゃないか。

だったら“私”を押し殺している場合じゃない。逆だ。もっと感じろ。どんどん考えろ。“私”だから書けることを、求められるライターになろう。

そう思ったのが昨年の今ごろ。たった一年の間に、AIは割と高い精度でインタビュー原稿が書けるまでに成長してきている。ただし「要点」をまとめるだけなら。

他者や世間の中にある、“私”不在のX地点と、“私”の他には誰もいないY地点の間で引っ張り合いなんかしていないで、地面を蹴り上げ、飛び跳ねて、XにもYにも通じるZ地点に行きたい。そこから“私”が捉える世界を書きたい。

バスに乗らずに歩き出してから20分、ようやく家に着いた。

あなたが今日の体育をつまらないと思うのは、別に大声で笑うようなことではないよ、と彼らに思う。

文/塚田 智恵美

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