「何もできない」と縮こまっていた私が「輪島ツアー」に参加して感じたこと【能登のいま/第14回】
イラストレーターの白ふくろう舎です。7月20日、さとゆみライティングゼミ卒業生の有志で、震災被害を受けた能登に行ってきました。私が参加したのはゼミ同期で輪島在住(現在は金沢に避難)のライター、二角さんが企画してくれた輪島ツアーです。出不精な自分がこのツアーに参加した理由とその日の様子をお伝えします。(執筆/白ふくろう舎)
「震災」という言葉を聞くたび、キュっと縮こまるような気持ちになる。大地震や水害でも変わらない。自分には起きなかった不運に対して、何もできなかったという後ろめたさ、罪悪感に似た気持ちだと思う。
全く何もしていないわけではない。義援金や応援購入、クラウドファンディング。絵を描くスキルが生かせればとチャリティーオークションに出品もした。そういう機会があることがありがたかった。
復旧が進まない、いや進んでいる、安全だ、安全ではない、さまざまな情報に触れて心が揺れるのも地味につらかった。かといって目をそらすこともできない。
そして今年、能登半島地震が起きた。
ああ、また。心が締め付けられる一方で、今回は少し変化があった。
2人の友人が、能登と密接に関わっていて、それぞれに情報を発信していたのだ。友人の言葉を読み、拡散することで私は少しだけ能登と自分を近づけることができた。私にとってこの時点で少し「関わりしろ」が増えたのだと思う。
もう1つ、だいぶ前の話になるが、久しぶりに会った友人がある被災地のボランティアに参加していたのを知った。意外だったのは、友人は私より若いとはいえクリエイティブ職の忙しい会社員で、ボランティアに参加しそうには思えなかったことだ。その彼女が「また行くんだ!」と、まるで新しい部活をはじめたような調子でボランティア活動のことを話してくれたのだ。
そのころの私は、ボランティアに行ってみようかと思っても、運転免許もないし体力にも自信がない、役に立てないのに行くぐらいなら稼ぎを寄付したほうがましでは、と思っていた。それが彼女から直接話を聞いたことで「もしかして私にもできるかも」「行ったら、また行きたくなるようなことがあるのかも」と、かなり前向きな気持ちになったのだ。
震災直後は無理としても、落ち着いたころならできることがあるかもしれない。ちらちらと情報を見ていたものの、いざボランティアをしようと思うと意外とハードルが高い。交通費や時間がかかるのはともかく、情報が分散しているし、日程がずっと先まで決まっていないので、旅行の予定を立てるようなわけにはいかなかった。
何が何でも行くという覚悟を決められないうちに半年が過ぎたある日。コレカラの掲示板に「7月20日に能登に行きませんか?」というさとゆみさんからの呼びかけがあった。メンバーで能登を訪れ、そこでボランティアをするorどこかを取材して記事を書くという。
これだ、このチャンスに乗ろう!
取材記事を書く自信はないけれど、ボランティア体験記なら書けそうだ。日にちが決まっていれば悩みようがないし、困ったら仲間に相談できる。絶対行くと決まればお金や仕事の調整ができるタイミングでもあった。
参加表明し、忘れないうちに航空券や新幹線の手配をし、折角ならと金沢近くに住んでいる友人に連絡をとり、泊めてもらう約束をする。そこまでは調子がよかったものの、いざボランティア先を探すところで躓いた。先にのと里山空港行きの飛行機を押さえてしまったので、金沢発のボランティアバスを利用できないのだ。空港から金沢までの移動は車で3時間位かかってしまうので間に合わない。 さらに、ボランティアバスも日程が発表されるとすぐに埋まってしまう。これは良い意味で意外だった。
日程決め打ちの上、実質半日ぐらいしか滞在できない場所でのボランティア先を見つけられず困っていると、能登在住でこの連載の執筆者の二角さんが「輪島ツアー」を組んでくれることになった。ボランティアの活動ベースにもいくつか寄るという。このツアーに参加して、現地の様子を生で見よう。もし可能ならボランティア参加のときに浮かんだ疑問も少し質問させてもらおう。
能登に行く前の、震災復興コーディネーターの藤沢烈さんによる事前レクチャーも有益だった。初心者は行政のボランティアサイトがわかりやすい、慣れてきたら民間で好きなところを探すといいとか、力仕事以外のボランティアも必要だとか。ここで傾聴ボランティアという存在も知った。相手の話を否定せず、寄り添って話を聞くことで被災者の心のケアの一助になるという。また、復興が遅いと言われているが、だれかがサボっているということではない、という言葉も印象に残った。
7月20日、のと里山空港にメンバーが集まる。遠くから車を出してくれる人もいる。取材先の手配、車の手配、スケジューリング、ここに着くまでにすでにさまざまな人の力に乗っかっていることを実感しつつ、行き先別に車に分乗する。
輪島ツアー組はまず「のと復耕ラボ」の「ボランティアBASE三井」へ。代表の山本亮さんの運営していた「里山まるごとホテル」は震災で大きな被害を受けた。現在はホテルの再開を目指すよりも支援活動に注力している。今後も復旧対応はしていくが、その先はラボのメンバーと一緒に持続可能な村を目指して森作りをしたいそうだ。
到着したときに素敵な古民家だと思ったけれど、このボランティアベースはもともと人気ホテルだったのだ。 現在は庭だけでなく、古民家内の一部、畳敷きの部屋にもテント が設置されて「宿泊者専用エリア」になっている。あらためて実感したのは、支援活動をしている人も被災者であること。その事実に圧倒されていると、山本さんが、東北のボランティアに3回ほど行ったと話してくれた。その経験があったので、いざ自分が支援をはじめたときもイメージがしやすかった。被災したときに真っ先に助けに来てくれるのも、関係のできたボランティア仲間だ、とも。
そんな話の中で「半日のボランティアが見つからなくて~」などと質問したのは、我ながら呑気で場違いだったと思う。しかし山本さんは丁寧に答えてくれた。
「個々のスケジュールでバラバラに参加されるとそのコーディネートまで手が回らないので、ラボでは一泊二日 以上の滞在をする方しか受け付けていない。ボランティアの多くは短期の参加だが、長期間できるならやはりそのほうがありがたい。しかし実は半日でもやることがないわけではなくて、どうしても後手にまわるベースの掃除や草刈りなど、なんでもいいから手伝うよという形で来てくれれば仕事はあるし助かる。自分で手伝い先を探して、宿泊だけ申し込むとか、炊き出しをしたいからちょっと厨房を借りたいという使い方も可能で、そういう人が混ざるのも良いと思っている。」
話を聞いてそれはそうだな、と納得する。ボランティアだから特別ということはなく、共同で何かをするなら自分で仕事を見つけて率先して動いてくれる人、長く一緒に続けられる人のほうがいいのは当然だ。そういう仲間が増えればより大きなことができる。常に一緒にいられなくても、一度関係ができれば臨機応変な参加のしかたもできる。逆にはじめてのことならば、イレギュラーではなくパッケージされたプログラムに参加するのが一番お互いにとってやりやすく、役に立てるだろう。
東京から参加しているボランティアのかたにも話を聞くことができた。その人は能登半島地震が起きてから何か所かをまわって、今は「のと復耕ラボ」で継続的に活動しているとのことだった。ボランティア慣れしている人でも、自分が一番役に立ちそうな場所を何か所かまわって探すのか! 私はどこかで、1回やったら心の荷物が下ろせるのではないかという気持ちがあったように思う。一方で、半端な関わり方はかえって迷惑だからと一歩を踏み出せない言い訳にもしていたことに気づいた。そもそも関係が続くかどうかは自分だけでは決められないことなのに。
結局、被災地支援だろうが普段の仕事だろうが、「やってもいいのでしょうか」と言っているうちは動けないのだ。「やるぞ」と一歩を踏み出すかどうかで、そこだけは自分にしか決められないことだ。
のと復耕ラボから移動する間も、二角さんが運転しながら色々な話をしてくれる。道路わきを走る青いパイプは「水道管ですね。埋められなかったんでしょうね」。教えてもらわなければそれが水道管とも気づかなかった。水道が通ったと聞けば「良かった」と安心するけれど、現実はこうなのか。この水道管が地下に埋められるには、あとどれぐらいかかるのだろう。
さらに、大元が復旧しても、個人の自宅まで水道を引くには、被災者それぞれが自力で手配しなくてはいけないそうだ。私有財産なので行政は介入できない。こんなときぐらい何とかならないかとも思うが、実際に行政の介入が可能になったらまずいことも起こりうるのは想像できる。
あちこちに、倒壊した家が残っている。美しい黒瓦が痛々しい。不思議なことに、建物が古いと全壊するというわけではなく、被害はまちまちらしい。どの家も大きくて立派で、特に山のほうの家は隣家との間も十分に広い。こういう家に住んでいた人たちが、壁一枚で仕切られた仮設住宅に住むのは、私が同じ状況になったとき以上にストレスを感じるのではないか、そんな気がした。
この土地における「家」と、転勤族の私が思う「家」との違い。
雑魚寝のような避難所などの写真を見るたび、「何度災害を経ても変わらない」と思うけれど、改善もされていること。
目にするひとつひとつの現実が、自分の思考を更新していく。
一方で、海と山、田んぼといった風景は、一瞬何もかも忘れるほど美しかった。ふと気づいたが、青々とした田んぼは、地震後に植えられたものだ。災害にくじけなかった人の営みと強さを思い、これまでとはまた違った思いに胸が詰まった。
金沢へ向かう道の途中で三重県警のパトカーが走っていた。何事かと思ったが、一時はもっと多くの他県のパトカーを見かけたそうだ。災害の混乱に付け入る犯罪は腹立たしいけれど、ここでも県内外から多くの支援が来ているのだと実感した。
また、今回のツアー各所でお話をうかがいながら、相手によって話せること、話せないことがあるように感じた。
たとえば同じ被災者同士は、苦しみを共有している分「相手はもっとつらいかもしれない」と、自分のつらさを言いにくくなる。全壊、半壊などの被害の差によって補助金が変わり、ライフラインの復旧に差が出れば、話題にもしにくくなる。ある人にとって希望になるイベントも、別の人はもっと他のところにリソースを割いてほしいと思うかもしれない。
だからこそ、外から来た人にだけ話せることも、もしかしたらあるかもしれない。
皆が同じように大変な時期を乗り越えて、ようやく周りが見えるようになった。ここからがまた大変なのに、世の中の興味が急速に失われていくように感じるのはつらいだろう。
それだけに、外から人が来る、それだけでも力になれるのかもしれないと思うこともあった。
あっという間の1日を終えて感じたのは、災害と復興、非日常と日常は点ではなくて線でつながっていること。そしてその線をつなぐために、本当にたくさんの人たちが頑張っているということだ。これからきっと「能登の話をきかせてね」と言われると思うけれど、「能登」は主語として語るには大きすぎる。この原稿にも、私は見たこと、感じたことをできるだけ書こうとしたけれど、とても書ききれない。
だからこそ1日でも行ってよかったと思う。
今回の輪島ツアーに参加できた私は運が良かった。けれどこの運に乗るために、無数の小さなピースが私を後押ししてくれた。そのピースは過去に私が関わってきた人すべてだ。1つ1つの行動が役に立ったかどうかは、簡単に測れない。でも役に立ちたい、何かしたいという気持ちをもって、小さくても行動に移すことをやめない、それがこれからも大事なのだろう。今回の一歩が、次の一歩を後押ししてくれると思う。
そんな当たり前の、わかっていたはずのことをあらためてかみしめるような経験だった。
文/白ふくろう舎
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