
「懐かしさに泣けてしまう」の正体 ~映画『片思い世界』が映し出す、喪失のかたち
息子が小学校に上がって間もない頃のこと。昔住んでいた家の近くを車で通りかかったとき、窓の外をじっと見ていた息子が声を上げた。
「もう、見たくないぐらい懐かしい!」
息子の視線の先には、幼稚園の行き帰りに毎日一緒に歩いた坂道があった。友達と蜜を吸ったツツジの花、しりとりしながら信号待ちした交差点、家族でよく行ったレストラン……どれもありふれた日々の風景だったのに、今見ると胸を締めつけるような懐かしさがあった。振り返ると、息子の目にはうっすら涙が浮かんでいた。
懐かしさに、泣けてしまう気持ちがある。幸せな記憶のはずなのに、脳裏に当時のシーンが浮かぶと涙がこみ上げる。それはなぜなのだろう。
*
4月の頭に、公開したばかりの映画『片思い世界』を見に行った。坂元裕二さんの脚本作品だ。事前のプロモーション画像では、3人の若い女性たちが仲良さそうに映っている。タイトルから想像される恋愛ドラマのにおいはしない。一体どんな物語なのだろう。あえてSNS情報を避け、白紙の状態で映画館に向かった。
話は、3人の女性たちが古い一軒家で暮らしているところから始まる。朝起きて洗濯し、食事をし、仕事や学校に向かう……そんな何気ない日常を彼女たちは生きている。けれども、周囲の人々には彼女たちの存在が見えない。
物語の中盤、彼女たちがすでにこの世を去った存在、つまり幽霊であることが明かされた。これは、SFやファンタジーの話なのか?! 一瞬、冷めた気分になった。しかし見続けるうちに、ファンタジーかどうかということは不思議と気にならなくなった。それよりも、私は幽霊には会ったことはないけれど、亡くなった人の存在を身近に感じるこの感覚を、何度も味わったことがあると思った。そして物語に引き込まれ、涙しながら映画を見終えた。共感の涙だと、その時は思った。
映画館を出て、私の心には希望が広がっていた。昨年亡くなった伯父のことを思い出した。すぐそこにいるように感じられ、嬉しくなった。亡くなってもすぐそばで、違うレイヤーの世界で生きている。映画の中で出てきた、見えない素粒子である「ニュートリノ」に関する科学のエピソードもあいまって、あり得ない話ではないのかもしれないとさえ思った。
でも、その後数日間、亡くなった人たちのことを思い返し、心の中で対話しているうちに、その希望は錯覚だったと分かった。なぜなら、その人との楽しかった思い出をリアルに思い出せば出すほど、「その時はもう過ぎ去ったんだ」と気づいてしまうから。その人の存在を今も生きているかのようにありありと感じるほど、「二度とあの頃には戻れない」と淋しさが押し寄せた。
映画の中で繰り返し見た、幽霊が「すぐ近くにいるのに声が届かない」、「目線が合わない」、「お互い思い合っているのに、心が通じない、交わらない」シーンの数々は、「失った」ことを映像で見せた描写だったのだと思った。失った悲しさに、私は泣いたんだと分かった。
そして、「懐かしいと泣けてしまう」感情の正体はこれなんだ、「失った」ことを思い知るからなんだ、と思い至った。
*
人は、日々いろいろなものを失っている。今の自分も、幼い頃の可愛い子供との時間も、幸せな気持ちも、出会ったそばから背後に過ぎ去っていく。時には、失っていることすら気づかないうちに。逆に、そのただなかにいる時にさえ、「今のこの瞬間は、後から振り返ったら、きっとかけがえのなさに泣いてしまう。神様、時を止めて」と思うほどに、眩しい時間もある。けれどいくら願っても、無常に時は過ぎていく。
切ないけれど、人生はそういうものなのかもしれない。生きている限り、失っていく淋しさは、避けては通れない。毎日毎秒、「ああ失っていくなぁ」と思っていたらやっていられないから、そんなことは思わない。でも誰もが確かに失っている。そのことを思うと胸がチクリと痛む。それでも私たちは前を向いて生きてゆかなければならない。失い、別れる切なさ、淋しさ、郷愁のような思いを心の奥底に蓄積し、失った世界に届かぬ”片思い”をしながら、私たちは日々生きているのではないだろうか。
脚本の坂元さんは、「今までの作品は残そうと思って作ってこなかったが、本作だけは棺桶に入れてもいいかな」と語っていた。人生において、失われていくものは、切なくも美しい。二度と戻らない過去を振り返り、昔と今に思いを行ったり来たりさせることは、人生の味わい深さを感じさせる。様々な喪失、別れを描く坂元作品に、私は毎度心震わせられている。
文/草薙 曜子
【この記事もおすすめ】