
実は私も“じごく”の一員でした。『がっこうはじごく』
小学校教員の私は、通勤電車の中でこの本をこっそり読んでいる。“先生”なら学校はすてきな場所だと肯定するのが当然。『がっこうはじごく』なんて強烈なタイトルの本を読んでいるところを、保護者や子どもに見られたくないな……と思ったとき、私は“じごく”の立派な一員なのだと気づいてしまった。誰が決めたのか分からない“先生らしさ”に、自分自身が勝手に縛られているのだから。
著者の堀静香さんも現役の教員だ。「教室という空間のもつ、どうしようもない異質さについてつねに考えている」という。確かに学校は異常な空間だ。同じ狭い机を並べ、同じ固い椅子に座って、同じ方向を向いて教員の話を聞く。授業の前後には「起立、礼、着席」と一斉に教員に頭を下げる。「先生、トイレに行ってもいいですか」「先生、お茶を飲んでもいいですか」と、そんなことまで許可を取ろうとする子どもたち。学校の外では当たり前の自由が、教室の中では当たり前に拘束されている。
どんなに「自由で温かい空間をつくりたい」と思っても、学校は構造として、教員によって常に管理され、身体を拘束される場であることは変わらない。だから「がっこうはじごく」。しかし、堀さんはそんな強い思いを持っていても「学校にいると忘れてしまう」という。恥ずかしいほどに、その通りだと思った。私は、子どもたちには「〇〇してもいいですか」なんて言わずに、自分のタイミングでトイレにも水分補給にも行って欲しい。自分の教室では学校の“おかしな当たり前”はなるべく減らしたいと思う。でも、教室の中を立ち歩く子がいたら、「どうしたの、授業中は自分の席に座ろうね」と声をかけてしまう。全ての当たり前を取っ払ってしまったら、学級崩壊が起きてしまうのではないか、という不安が頭をよぎる。そもそも、崩壊という言葉の響きもなんだかおかしい。結局、私も“じごく”の一員で、子どもを管理して安心を保っているのかもしれない。
これまでぼんやりと感じていた学校の異質さが、堀さんの言葉によってはっきりと見えてきた。学校って、ほんとうにおかしな場所だ。たとえば、学校を一歩出たら、30人の子どもたちが静かに私に注目することなんて絶対にない。私はカリスマ性もなければ、特別な知識や技術があるわけでもない、ごく平凡な大人だ。それなのに“先生”という役割だけで、子どもたちは当たり前のように私の話を聞こうとしてくれる。この関係は私の人間性ではなく、あくまで役割によって成り立っているのだ。
朝、家を出るギリギリの時間まで、「働きたくないよ〜」と床に寝そべっていた私が、数時間後には「2時間目は理科室で授業をします。時間に遅れないように移動してね」と偉そうに言っている。このギャップがおかしくて、自分でも笑えてくる。教員になって10年近く経つが、“先生のような”顔をしている自分が時々むずがゆくなる。
1年間のうち200日以上を一緒に過ごすのに、子どもたちは普段の私を全然知らない。休日にショッピングモールで夫としょうもない話をしてふざけて歩いているところなんて、絶対に見られたくない。でも、私もまた、子どもたちの学校での顔しか知らない。保護者から、家での子どもの様子を聞いて驚くことがある。学校では口数の少ないクールな子が、家ではおしゃべりが止まらないほど学校での出来事をたくさん報告してくれること。友達との喧嘩が多い子が、家では妹の面倒をよく見てくれる優しいお兄ちゃんだったこと。そんな話を聞くたびに、私は目の前の子のことを全然知らないのだなと思う。私たちは、“役割”としてしかお互いを知らない。
学校って作り物みたいだと思った。管理する先生と管理される子どもが、当たり前のように一緒に過ごす、異質な空間。でもだからといって、そこで起きることまで作り物なのではない。本物の笑顔も、怒りも、涙も詰まっている。
堀さんの合唱コンクールのエピソードが心に残っている。夢、希望、絆と前向きすぎる歌詞にはどこか引いてしまうし、子どもたちが歌詞の意味を理解して歌っているとは思えない。「みんなの心が一つになったから、美しい歌が歌えたんだね」なんて、後から大人が勝手に仕立て上げた“いい話”に過ぎない。歌の練習より部活に行きたいとか、塾のテスト勉強をしなきゃ、と他のことを考えながら練習に参加をしている子も多いはず。それでも、子ども達が歌う合唱を聴くと感動して、いやでも涙が出てしまう、と堀さんは言う。
堀さんは「がっこうはじごく」だと言いながらも、学校に居続ける。私はこの本を読んで、学校が“じごく”であることに気づいた。そして「じごくであってはならない」と思うのに、じごくの一員をちゃんと担っていた自分にショックを受けた。でも、じごくの中に同じように揺れている仲間がいることがうれしかった。きっと、学校はこれからもおかしなじごくのままだろう。「なんでこんな場所で働いているんだろう」と思う日も、きっとなくならない。それでも、私も毎日“じごく”へ向かう。異質で、おかしくて、時には息苦しい場所でも、何故かここで生きていたいと思ってしまう。
文/麦野 あさ
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