検索
SHARE

“ふつう”なんて、きっとどこにもない『ふつうの女の子』【連載・あちらのお客さまからマンガです/第31回】

「行きつけの飲み屋でマンガを熱読し、声をかけてきた人にはもれなく激アツでマンガを勧めてしまう」という、ちゃんめい。そんなちゃんめいが、今一番読んでほしい! と激推しするマンガをお届け。今回は、思わず自分自身の幼い頃の記憶を辿ってしまったという、蒼井まもる先生の『ふつうの女の子』について語ります。


学生の頃、アルバイト先で「まるでティファールだね!」と言われたことがあるくらい、私は怒りの感情センサーが高めな人生を送ってきた。思い返せば、そんな私がこの世に生を受けて初めてイラッとした瞬間は、確か1歳くらいのころ。3つ上の姉に抱っこされたときだった気がする。

姉に当時のことを確認すると「ほら、妹を抱っこしてあげて!」といった、よくある大人の声に促され、姉は渋々赤ん坊の私をそっと抱きあげたそうだ。たった3歳差の女の子が、むちむちの赤子を抱っこするなんて、決して楽なことではない。大人になった今ならそう思えるのだが、当時1歳だった私は姉に抱っこされるたび、姉の細い腕に自分の肉や皮膚がぐっと食い込むのがとにかく痛くて不快だった。言葉にならない怒りと不満。「いてーんだよ!」という、人生最初の小さな反抗心が生まれた瞬間だった気がする。

……のっけからしょうもない話をしてしまいすみませんの気持ちでいっぱいなのだが(笑)、私が言いたかったのは、誰の心にもきっとある「はじめて」の記憶のこと。『ふつうの女の子』を読んだとき、私は思いがけずそんな個人的すぎる記憶を呼び起こされてしまったのだ。

「はじめて」の世界は、こんなにも刺激に満ちていた

『ふつうの女の子』を描いたのは、漫画家・蒼井まもる先生。高校生の妊娠・出産を描いた『あの子の子ども』でその名を知った人も多いだろう。桜田ひよりさん主演で実写ドラマ化もされたあの作品から一転、本作で描かれるのは妊娠・出産の“その後”の物語だ。とある夫婦のもとに生まれたアンという女の子。彼女の人生を、私たちは静かに見つめていく。

本作を読んでまず驚かされるのは、絵柄の変化だ。『あの子の子ども』の儚く繊細な線とは異なり、やわらかく温もりのある線が印象に残る。それでいて、どこか愛らしい。線そのものが、特別な出来事ではない日々の積み重なりや、生と生活のあわいを、静かに演出しているようにも感じた。

また、登場人物たちの語りの手法も特徴的だ。アンの内なる感情がモノローグで語られることはない。誰かが説明役になることもない。描かれるのは、あくまでも吹き出しの中の言葉だけ。私たちの普段の生活と同じように、相手が口にした言葉や仕草から、その心を想像するしかない。ページをめくるたびに、まるでホームビデオのように場面がパラパラと切り替わり、アンとその両親、祖父母たちとの日常が映し出されていく。なんというか、私たちは「物語を読む」というより、「日々を覗き見る」感覚に近い。

まるでホームビデオを再生するようにページをめくっていくと、ひときわ胸に刺さるのは、アンが経験する数々の「はじめて」だ。初めて耳にする音、触れたことのない感触、予期せぬ刺激……この世に満ちるあらゆる出来事に対して、アンは体ごとびくっと跳ねて反応する。大人にとっては取るに足らない出来事のひとつひとつが、アンにとっては、世界を揺るがすほどの体験として描かれる。

実際に妊娠・出産を経験した人であれば、「自分の子どももそうだったな」と、成長の過程を懐かしむことも多いのかもしれない。けれど私は、アンの姿を通して、自分自身の「はじめて」を思い返していた。アンが少しずつ立ち、歩き、言葉を発するようになり、さらに多くの「はじめて」を重ねていくのを見つめながらふと問いが浮かぶ。あのとき、世界はこんなふうに痛くて、まぶしくて、理不尽だったのだろうか、と。

「ふつう」の輪郭がほどけていく

さらに読み進めるうちに、私は自分自身の「はじめて」と同時に、ある人たちのことを思い出していた。それは、「ふつうの女の子」でも「ふつうの女性」でもない、しっかりと名前を持った私の友人たちだ。

なぜ彼女たちの顔が浮かんだのかというと、アンの母・仁美が、あまりにも“一人の人間”として描かれていたからだった。仁美は、創作にありがちな理想の母像や、テンプレート的な行動を取らない。迷い、選び、時に割り切りながら、自分の人生を動かしていく。そんな彼女を見て、女性を「女性」という言葉で一括りにできないように、母親もまた、ひとつの型には収まらない存在なのだと改めて実感させられた。

――私の周りには、結婚や妊娠・出産を経て、子育てをしながら働いている友人が多い。私が「独身・女性」とひと括りにされがちなように、彼女たちもまた「既婚・子持ち」とカテゴライズされることもあるだろう。けれど、私も友人たちも、誰一人として同じ人間ではない。

例えば、子どものことは大好きだけれど、日中は仕事に集中することに生き甲斐を見出し、保育園やシッターを上手に頼りながら子育てをしている人。仕事人間だったけれど、出産をきっかけに子どもと離れがたい気持ちが芽生え、在宅勤務のできる仕事へとジョブチェンジした人……。それぞれが、それぞれのやり方で母を、自分の人生を、やっているのだ。

アンの成長とともに仁美が選び続ける、母として、一人の女性としての生き方を見ていると、自然とそんな友人たちの姿が重なっていく。そうして読み進めるうちに、タイトルは『ふつうの女の子』だけれど、「ふつう」という言葉はどんどん輪郭を失っていく。

大きな括りの中では「ふつう」に見えるかもしれない人生も、人も、実際にはどこにも存在しない。「ふつう」なんて、きっとどこにもない。その当たり前で忘れがちな事実を、アンの小さな人生が私たちに確かに教えてくれる。

文/ちゃんめい

【この記事もおすすめ】

writer