
不完全でも、視野が狭くても、いい。バカリズムが不器用な私たちに贈る「笑い」という名の救い|舞台版『ノンレムの窓』
バカリズムが贈る新感覚SFショートショートドラマ『ノンレムの窓』の舞台版を観てきた。抜群に笑える人気TVシリーズの舞台化で、4本の短編からなるオムニバス作品だ。
日常のなにげない疑問や違和感をすくい上げ、思ってもいない角度から世界を構築し笑いに変える。視点をほんのわずかに変えるだけで、まったく違う場所へと連れていってくれる。そんなバカリズムの生み出す笑いは、驚きと爽快さを感じる一方で、ほんの少しだけ胸の奥をチクッとさせる。それは、ゲラゲラと笑いつつも、物事のほんの一面しか見ていない、知ろうともしていない自分に気づいてしまうからだろう。
舞台からの帰り道、以前の職場を思い出していた。若手スタッフの研修を担当していた私は、「お客様を笑顔にする」というゴールに確実に到達できるよう、それぞれのスタッフが最もスムーズに理解できる伝え方を常に探していた。
「こうしてもらえたら、嬉しいよね」と言う時もあれば、「お客様が気持ちよく動けるから、効率的だよ」と伝えることもあった。「あなたの思いを届けたいなら、こう動いた方がいい」といった技術的な切り口が、一番理解しやすい人もいた。それはとてもやりがいのある仕事で、試行錯誤する時間も楽しかった。
ところが、教えていたスタッフが新人を教える立場になった時、私はすべてのスタッフに、「相手に合わせて、教え方を変えてあげようね」と指導していた。同じように同じ言葉で。相手に合わせた方法を探そうともしなかった私のせいだろう。新人への指導が、思うようにいかない人もいた。
「なぜ、できないんだろう。相手のことをよく見てあげればいいのに」
そんな彼らを見て、当時の私はもどかしく感じていた。いい気になっていたんだと思う。指導者を指導する立場へと変わっただけで、これまで見えていたものが見えなくなるくらいには。
スタッフの中には、悩んだ末に仕事をやめてしまった人もいた。今でも彼女のことを思い出すと、申し訳なくてたまらなく、みぞおちの奥の方がグッと重く苦しくなる。
彼女は、現場でお客さんに接する仕事が大好きだった。その幸せな仕事を新人に教える立場に就き、新しいチャレンジにキラキラと輝いて取り組んでいたようにみえた。そして私の指導は、そんな彼女を導きも後押しもせず、混乱させただけだったと今では思う。
結局、彼女は退職し、業界から離れてしまった。誰かを笑顔にする仕事が、本当に大好きな人だったのに。当時のことを思い出すたびに、彼女が手放さざるを得なかった仕事を、その後ものうのうと続けてきた自分を思い切りぶん殴りたくなる。
そんなことを思い出してしまったのは、最後に上演された新作『バラエティ葬』で、二転三転する世界にどっぷり浸ったせいである。
バラエティが大好きだった父のために、娘の希望でバラエティ番組スタイルの葬儀を執り行うという設定だ。父を静かに、きっちりと送り出したいと願う兄は、バラエティ葬に反対する。だが、仕事に追われ父の最期に会えなかった罪悪感から、強く止めることができない。
「大切な人のために」との思いは同じ。けれど、そのあり方の違いから生まれる、怒りや悲しみ、やりきれなさが、笑いに姿を変えて映し出される。
葬儀は人の感情が最もあらわになる場だ。こんなの面白くならないはずがない。故人を送り出す大切な時間を、観客はずっとゲラゲラと笑って観ていた。コテコテなバラエティ演出の葬儀は、あまりにも不謹慎で悪ノリが過ぎるけれど、それはすべてバラエティを愛していた故人への思いゆえなのだ。愛あふれる非常識が心地よい。
『バラエティ葬』では後半、いかにも昭和のバラエティ番組的ノリの、どんでん返しシーンがある。それまで笑っていた不謹慎な自分と、真正面から向き合う時間。愛さえあれば笑ってもいいのか? 客席の空気が一転し、緊張する。
しかしその直後、それすらも覆され、客席は「してやられた!」と再び爆笑に包まれた。不謹慎な自分と向き合った瞬間の、小さな胸の痛みを残しながら。
笑いっぱなしだった4つの物語の合間には、TV版で見慣れた映像が流れた。窓先案内人のバカリズムが登場し、窓の向こう側にいる、直前に上演された作品の登場人物と会話する。
そして、本編では誰も気にとめなかったようなポイントを、さも重要なことのように取り上げて、私たちを愉快に混乱させる。
でもきっと、その突飛な視点すらも、誰かにとっては切実な現実のひとつなのだろう。だからこそ、笑える。私にとっての深刻さも、別の窓からのぞけば、なんの意味もない笑えるちっぽけなものなのだ。
終演後、観客はみんな、弾むような笑顔で劇場を後にしていた。私も、観劇前よりもちょっとだけ足取りが軽くなっていた。駅に向かいながら、これまでにやらかしたあれこれを思い出す。猛烈な反省も深い後悔もひっくるめた、過去の残念だった自分たち。
そして思う。私は毎日を生きるために、そんな記憶を忘れたふりして暮らしているんだなぁと。解決しない未消化の思いを、たくさん抱えているんだなぁと。
やっぱり笑いって優しい。自分の未熟さや視野の狭さ、そんなものに気づかされても、それを許されたような気持ちになる。大丈夫、みんな同じ。完璧な人なんていないんだからと。
自分の中でくすぶり続けている過去は、やっぱり笑い飛ばせないけれど。それでも私は、帰りの電車の中で、何年もかけて過去の自分に作り続けてきたタンコブを、ナデナデしてあげたい気持ちになっていた。
文/村田 幸音
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