
真理の探求を諦めた哲学が、「私が書く理由」を教えてくれた。朱喜哲『バラバラな世界で共に生きる リチャード・ローティの哲学』
「私が文章を書く理由」は、いったい何なのか。この問いが、私の頭の中にずっと居座っていた。
なぜ「あなたが」・「今」・「ここで(この媒体で)」書く必要があるのか、に答えられなければ、企画は立てられない。だから必死で考えるのだが、企画を立てようと思う度に私の頭の中で「あなたが」の部分が大きく膨らみ始めるのだ。「今」や「ここで」は比較的すぐ浮かぶ。しかし「あなたが」は、なかなか私には答えられない。なぜ「私が」この記事を書くべきなのか。私が書いてみたい、取材してみたいと思うのは、いつだってその人や会社を「私が偶然知ったから」だった。
「偶然知った」だけの私は、その人や会社を取材するのにふさわしくないのではないか。私よりもっと文章や取材がうまい人もいれば、その分野にもっと詳しい人もいる。他の人の方が詳しいのなら、書く人が私である必要性はない。書く人が私である必要性がないのだから「偶然私が知ったから」では「私が書くべき理由」にはならないのではないか。
そもそも、「私が書く理由」とは、いったい何なのか。「偶然知っただけの私」に文章を書く理由があるのか。つい、そんなふうに考えてしまう。
そんなモヤモヤを抱えたまま、出会ったのが『バラバラな世界で共に生きる リチャード・ローティの哲学』だ。なぜこの本を手に取ったかというと、私は大学時代、哲学を専攻して学んでいたからだ。もともと哲学には強い興味・関心があった。
読んでみると、私は足元をグラグラと揺らされているかのような衝撃を受けた。伝統的な西洋哲学とは、真理を探求する学問だ。正義とは何か。善とは何か。世界はどうやって成り立っているのか。「AはBである」ことを証明していくのが、伝統的な哲学の営みだった。
そんな哲学の姿に異を唱えたのがリチャード・ローティだ。
“哲学者たちはいまだかつて一度も、あらゆる時代に適用可能な真理を見つけることや、知識を基礎づけることに成功した例(ルビ:ため)しはないわけです。それを、いつか至るかもしれない希望として残しておくのか。それとも、そうした願望自体をもつべきではないと考えるのか。そのとき、ローティは後者の道を採るべきだと言います。”p.40
後世に名の残る哲学者であっても、その時代・その社会でたまたま使われていた「ことばつかい」によって、ものごとの本質や真理を説明しようとしたに過ぎない。つまり、哲学ですら「ことばづかい」によって変わってしまうとローティは言う。 だから、普遍的な真理の探求などいっそのことやめてしまえ、というのがローティの主張だ。
「絶対的な本質や真理はない」「多様性が大切だ」という考え方は、既に世の中で広く受け入れられているだろう。しかし、哲学に関していえば、その考え方は常識ではない。ローティの言葉は、哲学という学問の前提そのものを問い直すものだ。
哲学が長い歴史の中で探求し続けてきた真理ですら、偶然的な「ことばづかい」によって変わってしまうという事実。その事実を当の哲学者から突きつけられてしまった。しかも、真理の探究なんてやめろ、とまで言ってくる。正直、私はとても動揺した。信仰していた神様が、実はただの人だった、という感覚に近いのかもしれない。
この衝撃は、私にある気づきをもたらしてくれた。
あれだけ「ただひとつの真理を探求せよ」と言い続けてきた哲学ですら、ローティに言わせれば、偶然生まれた結果のひとつでしかない。もしそうだとしたら、哲学が探求し続けた真理にも、普遍性などあるはずがないのだ。
その事実を突きつけられて、私ははっとした。私は「私が書く理由」に「どの時代の誰もが納得する理由」を求めてしまっていたのではないか、と。
あれだけ真理を求めた哲学ですら、普遍性などない。にもかかわらず、私は「私が書く理由」にまで「私でなければならない」と言える絶対的な理由を求めすぎたのかもしれない。そんな理由がなければ書いてはいけないのだとしたら、私は何も書けなくなる。実際、企画を浮かべては「私が書く理由はなんなんだ……」と頭でっかちに悩み、企画を出せないままだった。
「偶然」私が知ったことをきっかけに文章を書く。さらに「偶然」誰かがその文章を読み、これまでとは少し違う見方を持てるかもしれない。そう考えたとき、「偶然私が知った」という理由で、文章を書いてみてもいいのではないか、と私は思えた。
ライターが自ら企画を通すとき、そんなふわっとした理由で書かせてもらえるものではないと、私は思っていた。メディアに投資をしてもらうのだから、万人が納得する「私が書く理由」がなければ提案する資格すらない、と。しかし、自分が書き始める最初の一歩として、「偶然私が知った」ことを理由にしてもいいのではないか、と今の私は思えるようになった。
ローティの哲学を読んで、私は「私が書く」には、「私でなければならない理由」が絶対に必要だと思い込んでいたことに気づいた。しかし、今は違う。「偶然私が知ったから」でもいい。その偶然が、また誰かの偶然につながるかもしれない。そう思う。
文/吉岡かんな
【この記事もおすすめ】


